2015年6月29日月曜日

『巨人の星』では一流アスリートは生まれない

■少年野球は『巨人の星』のまま?
先日のコラムについて、さまざまなご意見をちょうだいしました。そのなかで『巨人の星』というキーワードを見て、言い得て妙だなと思わされました。

以前、日本サッカー協会で開催された「サッカー本 事始め」というトークショーのゲストであるスポーツライター賀川 浩さんが、初めて日本にスポーツというものが上陸した明治時代から太平洋戦争後、昭和の終わりまでの流れを語られました。スポーツとは元々西洋文化の一端で、キリスト教の安息日に始まる“休日をエンジョイする”ことを目的としたものだったそう。

確かにスポーツは、“心身を健やかに育む”という点では最適な存在ですが、明治日本では富国強兵制度が敷かれていたこともあり、「体育」という国民教育の一環として利用されたと言われています。確かに監督の指示こそが絶対のベースボールが野球として根付いたこと、見方次第では軍隊の訓練かと思うような体育の練習風景など、欧米で楽しまれているスポーツとは様相が異なる印象です。

『巨人の星』と言われたら、否応なく納得させられる共通点がいくつもあります。さりとて、戦後からつい十数年ほど前まではそんなシーンに違和感を覚えたことはありませんし、部活動で監督やコーチに怒鳴られても「ありがとうございます!」と返しては精一杯のパワーを放り出して倒れるまで練習に明け暮れることを当然のものとして受け入れていました。

「そもそも、それっておかしくない?」と言われるようになったのは、ごく最近のことだと思います。以前にも増して諸外国との交流が高まり(海外へ行く機会が増えた)、インターネットの普及でそれまで以上の情報が溢れかえり、コーチングという言葉が一般的になりました。プロのスポーツ選手だって、数十年前とは比べものにならないほどアスリート色が強まりました。

根性論では物事が解決しない、ようやくそのことに気づいたのです。

それでも、スポーツ界の底辺には今なおその根性論がはびこっています。もちろん情熱なくしてスポーツに取り組んでも良いプレーは生み出せませんが、論理的に物事を運ぼうとする考え方なくして、建設的な発展はありえません。


■少年野球と変わらない高校野球の実情
ミスを悪として咎める風潮は、少年野球だけのものではありません。おそらく日常生活のなかでも感じられるシーンが多々あるでしょう。振り返るに、長い年月をかけて積み上げられてきた日本人古来の伝統、いや性質というべきか。ロジカルに物事を進めたいのに、精神論で話を台無しにされるというジレンマを感じた方も多いでしょう。

他の競技とは違い、長い歴史とともに国民に親しまれてきた野球という存在には、これまでヨシとされてきた“悪しき伝統”が随所に見られるのも事実。そのひとつが、高校野球です。

真夏の炎天下、ひとりの高校生ピッチャーが連戦連投を繰り返す……。これまで美談として語り継がれてきましたが、ニュートラルな目で見れば、異常というほかない光景です。プロの選手だってまず連投などしません。選手層の問題が一番大きいのでしょうが、だからといってひとりの未来ある選手を壊していいという道理にはなりません。

“選手がはつらつとプレーできる環境を整える”ことがスポーツ本来の目的であるにもかかわらず、どこでどう間違えたのは“選手を痛めつける”ことになっているケースの多いこと。

「とあるスポーツクラブに入会したら、実は自衛隊でした」

とまで言ったら言い過ぎかもしれませんが、より良い選手を育てることを目的とするなら、コーチングそのものを見直すべき。そうしたら、夏の甲子園でぶっ倒れるまでピッチャーに連投させるなどという愚行に走ることはまずありません。

忠誠心の高さという日本人の良い部分が裏目に出た……いや、良い部分をうまく利用したシステムが、スポーツ根性論でしょう。誤解なきよう申し上げますが、ポジティブな姿勢を生む気持ちなくしてより良い取り組みは生まれませんが、かといって精神論だけですべてを解決しようというのは誤りです。それって、徹夜自慢する勘違い会社員とさして変わりません。


■クラブの選び方が重要になってくる現代
現代の少年野球(リトル)の指導者には、元プロ選手という人もいれば、「甲子園に出たことあるんだぜ」という元高校球児、そして「子どもらに教える程度なら」という野球経験者のおじさんと、さまざまなタイプが入り交じっていることでしょう。もちろんそれぞれのチーム事情(運営に関する資金や母体の違いなど)ありきでの人選だと思いますが、これからの時代、コーチングに関する独自理論を持たない指導者のもとには人は集まらないでしょう。

逆もまた然りで、選ぶ側も指導者の資質をしっかりと見極めなければなりません。いくらすごい肩書きを持っていても、指導のイロハすらままならない人のもとでいくら時間を費やしても向上するのは難しいですし、逆にノンキャリアでも“育む”という才能を有した指導者も存在します。

じゃあ、その違いを見分けるには?カンタンです、その指導者に「育成の目標」について聞けばいいのです。

スポーツを通じて、子どもたちにどんなことを学んでほしいのか、何を目標にしてほしいと考えているのか。少年少女を対象としたスポーツクラブにおける育成は、教育と同等。とすれば、育成の目的が明確でなければなりません。

特に「勝負ごとについての考え方」はもっとも重要だと思います。スポーツで人が死ぬことはありませんが、勝負ごとゆえ必ず勝敗が分かれます。勝者には賞賛が、敗者には屈辱が。ともすれば人生の縮図とも言うべき明暗を子ども時分から学ぶわけですから、指導者が勝負ごとに関する教育をするうえで、何を伝えたいかが明確であるべき。

そして、練習風景や試合を観る。“言うは易く、行うは難し”で、結局精神論だけで乗り越えさせようとする指導者のもとにいても時間の無駄。自分の子どもには最高の環境で楽しませてやりたい、高みを目指させてやりたいと願うものです、時間をかけて最適なクラブを選びましょう。そうすれば、必然的に優秀な指導者のもとに人は集まりますし、時代の流れを読み取れなかったクラブは自然消滅していくのみ。

何事も同様だと思いますが、“利用する側”が真理を見極める目を持つことこそが、環境をより良くする最善策なのではないでしょうか。

2015年6月24日水曜日

ミスを“悪”と捉えて怒鳴るしか能がないスポーツ指導者にもの申す

■怒鳴り声しか聞こえない河川敷の野球場

先日、メーカーからお借りしているバイクを撮影しようと近所の河川敷に行ったときのことです。ときは夕方、ちょうど少年野球チームが練習をしていました。

ひとりで黙々と撮影をしていたのですが、どうも耳に残る“何か”がある。なんだろう、と手をとめて耳を澄ますと、僕が異音と思ったのは、野球チームのコーチの怒鳴り声でした。それも、ずっと怒鳴りっぱなし。

選手が怠惰なプレーをすれば、怒鳴られるのは当たり前。さぼっていれば、怒鳴られるのは当たり前。でも、練習中ずっと怠けっぱなしの選手なんかいるわけがありません。にもかかわらず、コーチの怒鳴り声が途切れることはありませんでした。

いえ、決してそのコーチが選手たちのことを憎くて怒鳴っていたのではないでしょうが、“怒鳴る”以外の表現が思いつかないほど、声を荒げておられたのです。

僕も部活経験があるので、さして珍しいことではないとも思う部分があります。が、改めて日本のスポーツって“体育”なんだなぁ、と感じ入った次第です。

練習の様子を見ていて気づいたのは、そのコーチがミスに対して怒鳴り度合いを高めていたことでした。「そりゃミスすりゃ怒鳴るだろう」と思われるかもしれませんが、ちょっと待ってください。

ミスは“悪”ですか?


■貴重な機会を握り潰す指導者こそ悪

答えは、否。ミスは“悪”ではなく、新しい知識と経験を得るためのステップのひとつです。そして指導者がやらねばならないのは、その選手のミスについて「何がよくなかったのか」、「どうすれば改善できるのか」、「どうすればより良いプレーを生み出せるのか」をともに考え、導くことです。怒鳴ることではありません。

そもそも、地域のリトルだと、年会費や月謝を払い、グローブやバット、ユニフォームなどの購入とかなりのお金がかかっています。遠征だのなんだのと言い出したら、ご両親の心労たるや、というところです。

なぜリトルに参加しているのか。それは、その子どもが野球をしたいから、野球がうまくなりたいから。なかには「プロになりたい」と思っている子どももいるでしょう。その想いを汲み、親御さんはその子をバックアップしているに違いありません。

にもかかわらず、“ミスをする”というその子がより良い選手になるための機会を、怒鳴るだけで済ましているコーチが数多いるのです。僕が親で、その練習模様を目の当たりにしたら、すぐさまチームを変えさせます。子どもがはつらつとスポーツを楽しめないクラブなど願い下げです。


■日本スポーツ界の悪しき伝統


野球、サッカー、バスケットボール、バレーボール、テニス、卓球……競技はなんでもいいんです、スポーツの本質は“楽しむこと”。もちろん楽しむためには練習をしてさまざまな技術を身につける必要があります。それを本番で披露する楽しみこそが、スポーツの醍醐味。

しかし、日本におけるスポーツ界の底辺では、まるで何かの訓練のような様相を呈しているのが実情。そして、日本スポーツ界の悪しき伝統でもある『補欠制度』もまた然り。大変な練習をしてきても実戦で表現する場を与えられないというのは、“悪”というほかありません。

剣道や柔道、そして花道、茶道など、日本人は常に“道”を求め、より高い頂を追求せんとする民族性を持っています。それは大いに賞賛されるべきことですし、その献身的な姿勢は世界でも評価されています。

競技は違えど、スポーツにそのスタンスを持ち込むこと自体は間違いではないのですが、スポーツの本質まで見誤ったらNG。フィジカルとメンタル、両方が良いバランスのもと体を育み、競技を楽しむことがスポーツの醍醐味。ミスを怒鳴られて良いプレーができれば、プロの選手だって誰も苦労しません。

2020年、我が国は世界最大級のスポーツの祭典、オリンピックを開催します。開催自体は喜ばしいことですし(国民が望んだ開催かどうかは疑わしいですが)、これによって日常にスポーツを感じ、スポーツに親しむ日常を得ることができるでしょう。

だからこそ、スポーツに取り組む姿勢を理解せねばなりません。そう、日本サッカー協会が提唱しているように、「スポーツで、もっと、幸せな国へ。」となっていくためには。

2015年6月23日火曜日

次の試合で問われるハリルホジッチの真価

■過大評価される日本代表

2018年W杯ロシア大会、アジア二次予選の初戦シンガポールを引き分けで終えた日本代表。終わったことをグダグダ言っても仕方ないですが、反省すべきところはしっかりしてもらわないと。「サンシーロに比べたら50倍マシ」とか皮肉言われても、負け犬の遠吠えにしか聞こえませんから。

さすがのハリルホジッチ監督もショックを隠しきれなかった結果ですが、一方で「さもありなん」とも思います。なぜならば、日本代表の戦い方が不安定なのは今に始まったことではないからです。

よく考えてみましょう。2014年W杯ブラジル大会と比べて、今の日本代表のメンバーってそんなに差がありますか? せいぜい遠藤保仁(G大阪)と柴崎岳(鹿島)が変わったぐらいで、ほぼ同じメンバー。そのブラジル大会で申し分ない結果を出していたのなら、メンバーの大半が変わっていなくてもヨシ、ですが、結果は2敗1分けという散々な結果でのグループリーグ敗退。そして先のアジアカップ、アギーレ前監督のもと、ほぼ同じメンバーで臨んだ結果、ここ10数年で最低のベスト8敗退。

アジアでは上位に位置する実力を有してはいるけど、ちょっとレベルがあがると脆い。それが今の日本代表、ブラジル大会からほとんど何も変わっていない日本代表です。シンガポールに引き分けるというのはもはやネタにしか見えませんが、過大評価されている現状に目を向ける良いキッカケになったんじゃないでしょうか。


■まずはメンバー刷新から

今後の日本代表のスケジュールを見てみると、8月に中国で開催される『EAFF東アジアカップ2015決勝大会』で北朝鮮、韓国、中国と試合を行い、9月3日に再びW杯予選 第2戦 カンボジアをホームに迎えます。

シンガポール戦後、「眠れなかった」というハリルホジッチ監督も東アジアカップをテストの場とし、第2戦への試金石としていくかと思いますが、ここがハリルホジッチ監督の運命の分かれ道だと思っています。

まずは、大胆なメンバーチェンジを行えるか否か。

代表監督に就任して数試合を戦っただけで、まだ戦力の掘り起こしがやりきれていない感はありますが、とはいえ時は待ってくれません。海外組をほぼスタートから使ってあの結果です、“完全に”ではありませんが、若干頭打ちになっていることは明らか。新戦力の掘り起こしは急務です。

ハリルホジッチ監督はかなりJリーグを重視しており、相当数の試合観戦に訪れているそうです。多少未知数なところがあっても、実戦で使ってみることに踏み切ってみるべき。でなければ、ロシア大会での結果など推して知るべし、です。


■実戦とは、W杯予選のこと

“新戦力に実戦経験を”と言いましたが、それは次のカンボジア戦を指しています。東アジアカップは、あくまでテストの場であって、大切な出場権を賭けたW杯予選と同一視はできません。そもそも、対戦相手も予選の真っ最中、テスト色が濃くなるのは日本だけではないでしょう。

人によって好みはさまざまですが、カンボジア戦については注目の若手を中心に国内組のみで挑むべき。ここに海外組は不要です。そもそも2次予選で格下相手のホームという条件で、海外組の力をフル活用しなければ勝てないようじゃ、先が思いやられます。

“背水の陣”みたいな根性論を振りかざすつもりはありません。論理的に考えて、シンガポールをも叩き伏せられない海外組をビジネスクラス(またはファーストクラス)で呼び戻す予算があるぐらいなら、新戦力の発掘という有意義なことに使うべきだと言いたいのです。どれだけ技術と経験を持っていても、大切な場面でその能力を発揮できない“ガラスのハート”の背番号10なんて、僕だったら使う気にすらなりません。

さらに先のW杯本大会を見据えるのであれば、今からこのぐらいのことをやっておかなければ、後で「手札がない」と嘆くことになるのですから。それ、土壇場で大久保義人(川崎)を呼ばなくてはならなくなったザッケローニ監督の二の舞ですよ。

勝つ気があるのであれば、ですが。

2015年6月16日火曜日

勝負に対する気迫を感じない日本代表サポーター

2018年ワールドカップ ロシア大会 アジア二次予選 グループC 
日本 0 - 0 シンガポール 
2015年6月16日(火) 埼玉スタジアム2002(日本)


「オー、ニッポーン、ニッポーン、ニッポーン、ニッポーン」

途絶えることのない応援歌。今回ほどその光景が滑稽に見えたことはありませんでした。

2015年6月現在、FIFAランキングという点から見れば、52位の日本に対し、シンガポールは154位。「アテにならない」と言われるFIFAランキングですが、とはいえここまで差が開いていれば、どういう試合展開になるかは予測できようもの。実際、ボール支配率は63パーセント、シュート本数も3本のシンガポールに対し、日本は28本と雨あられのように撃ちまくりまくりました。格下チームと対戦したF.C.バルセロナかと思うようなデータです。

ところが、最後の一本、一点が入らなかった。

確かに相手のGKが当たりに当たっていたという副産物はありました。後半に放たれた本田圭祐の完璧なヘッドも、コースが甘かったとはいえ片手一本でかき出す神セーブで無効に。闇雲なハイクロスが通用しない空中戦に強いGKでした(某解説者は「もっとサイドからクロスを!」と叫んでいらっしゃいましたが……)。

とはいえ、それが言い訳になるはずがありません。1位しか確実に通過できない二次予選で、格下をホームに迎えての初戦。「シンガポールを過小評価してはならない」とはハリルホジッチ監督の言葉ですが、この状況下で負けは論外、引き分けも負けと同じ。勝利以外はあり得なかった試合です。

敗戦の原因は、不運だけではありません。圧倒的にボールを支配しながら、バイタルエリアから先の“崩しのアイディア”が致命的に乏しい。岡崎、本田、香川、宇佐美という先発の四人はもちろん、途中投入された選手も「どういうボールが欲しい」という要求がまるでない。だから、チームとしての攻撃の型が共有できない。プレッシャーもさしてないのに慌ててボールを手放すから、相手からしたら読みやすい。シンガポールがべったり引いていたのもありますが、「引いた相手をどう崩すか」などという課題は10年以上も前から言われているアジア対策ですし、海外のトップリーグでプレーしている選手が先発を飾っていながら無力というのは無様という他ありません。

絶対に勝たなければならない相手からゴールが奪えない。時間が経てば経つほどプレッシャーがのしかかっていたのでしょう、終盤はボールがまともに足元に落ち着かない選手が続発する始末。まだ二次予選ですよ? これでは先が思いやられます。

そして、サポーターのレベルの低さも浮き彫りに。

後半22分、完全に捉えたと思われた本田のヘッドが相手GKのビッグセーブでかき出された瞬間、「あ、今日は本気でやばいな」という雰囲気に陥りました。おそらくスタジアムも同じような雰囲気に包まれたことでしょう。

そこでサポーターが取った行動とは……変わらぬ大合唱でした。単調なテンポの合唱が聞こえ続け、「ああ、この人たちは本気で勝ちたいとは思っていないんだな」と思いました。

声援をおくることを否定するわけではありませんが、アジア最終予選で中東の強豪と戦っているならいざしらず、二次予選の初戦で格下相手、そしてホームという状況下だということを考えましょう。これで怒らない方がどうかしています。

「お前ら、何ちんたらやってんだ。とっととねじ伏せろ」

これぐらいの意思表示は当たり前。試合が終わってからブーイングがあったそうですが、いやいやタイミングそこじゃないでしょう、と。なぜ試合中に怒りを示さないのでしょう。「まわりが精一杯応援しているから、自分も一緒に声援を送らなきゃ」と? それ、サポーターじゃなくてコンサートに来たファンですよね。この日、あのスタジアムで声援をおくるだけだった人すべて、目の前で繰り広げられている試合が勝負事だという認識が薄い方々だったのでしょう。この点に関しては、「サポーターに恵まれていないなぁ」と日本代表の面々に同情します。

10数年前、イタリア・ローマのスタディオ・オリンピコでA.S.ローマvsレッジーナの試合を観戦したことがあるのですが、後半半ば、レッジーナに先制点を奪われると、6万人とも言われるローマのサポーターが足踏みを始めたのです。すると、スタジアムは地鳴りに包まれました。

「お前ら、このまま終わったらどうなるか分かってるな」

まるでそう言わんばかりの怒りの地鳴り。結果的にローマは敗れ、帰路につくサポーターの表情はまるでお通夜帰りのようでした。ただ、怒りを表すことは本気で勝利を渇望するがゆえ、ということを教えられました。

選手を育てるのは、サポーター。サッカーに対する審美眼を養い、良いプレーには賞賛を、怠惰なプレーには罵声をおくる。そうすることで、選手は真剣勝負の意味を知り、より良い選手へと成長していくのです。

「まるでアイドルのコンサートのよう」とはセルジオ越後さんの言葉ですが、今日のていたらくはその言葉どおり。サポーターがこのレベルでは選手間に緊張感は走らないし、今より日本代表が強くなることはないでしょう。ハリルホジッチといえど、魔法使いではないですから。

アジアカップ ベスト8から監督が変わり、テストマッチで3連勝を飾ったことでチームが強くなったかのように思われていましたが、改めて日本代表の現在地が見えた試合だったのではないでしょうか。

まぁ、アジアでこの結果しか出せない日本代表を「歴代最強」などと謳っている馬鹿げた状況を思えば、一度ぐらいワールドカップ出場を逃してもいいんじゃないか、と思っています。イングランドやフランスだって出場を逃したことがあります、そして彼らは、その黒歴史を糧に再び勝ち上がってきました。そう、良薬口に苦し、です。

良薬が必要なのは、サポーターか代表選手か、はたまた……。

2015年6月13日土曜日

哲学と情熱を証明したドゥカティのものづくり

2014年のインターモトで発表されて以来注目を集めていたイタリアンモーターサイクルメーカー『ドゥカティ』のニューモデル、スクランブラーの日本での販売がついに開始となりました。All Aboutのバイクガイドでも試乗インプレッションをお届けしています。


>> スクランブラー ドゥカティ 徹底解析

詳しくは上記をご覧いただくとして、個人的に感心したのはその造形美。エンジンはモンスター796の流用ですが、それ以外のほとんどがスクランブラー専用のもの。そう、フレームやスイングアームといった大物まで専用のものを開発しているのです。

既存モデルからのエンジン流用は珍しくありませんが、最近では既存モデルのパーツを寄せ集めて違うモデルとして出しちゃうメーカーも少なくありません。僕はそれを「ツギハギバイク」「フランケンバイク」と呼んだりします。しかしながらそれも、今や企業としてクリアせねばならないコストカット問題ゆえ。会社員時代に想いを馳せて、「それも致し方なしか」と冷ややかな目で見ていたのです。

発表当初はシルエットしか見せていなかったスクランブラーも、一部では「ツギハギバイクでは」と言われていたのですが、実際の姿はとんでもない、とても100万円前後とは思えないハイグレードな仕上がりでした。日本のメーカーが手がけるような優等生モデルではないものの、ドゥカティらしいアクの強さを持たせつつ、ビジュアルとスポーツ性能の両方を兼ね備えた完成度を見せつけてきたのです。

ドゥカティジャパンより広報車をお借りし、一週間乗り倒しました。乗れば乗るほど味わいが出てくるほどで、広報車をお借りして「まだ乗り足りない」と初めて思えたオートバイだったのです。正直、今は真剣に購入を検討しています。

とことん乗らせていただき、ふと頭に浮かんだのが、ビューエルというバイク(メーカー)でした。出自はハーレーダビッドソンで、ハーレー特有のVツインエンジンを心臓に持ちつつ、現代のスポーツバイクとして必要なスタイリングにまとめられたバイクを生み出していました。2009年、売り上げ低迷から米ハーレーダビッドソンはビューエルの生産中止を発表、今なお根強いファンを持ちつつも、ハーレーの歴史からスポーツバイクの分野は切り捨てられたのです。

メーカーとしてのフィロソフィー(哲学)が込められた特有のエンジンを持たせつつ、スポーツバイクとしての性能を突き詰め、なおかつスタイリッシュにカルチャーを感じさせられるモーターサイクル。ビューエルが狙っていた世界観はまさにこれで、米ハーレー本社も、現在のスポーツスターにそのノウハウを投入するつもりだったのでしょう。リーマンショックの影響からの経営判断でしょうが、「もしビューエルの技術やノウハウが今のスポーツスターに投入されていたら……」と想像すると、スクランブラーのスタイルになるのです。

そう、本来ならばハーレーダビッドソンがもっと早くに作らねばならなかったオートバイを、ドゥカティに作られてしまった。スクランブラーの背景がアメリカンカルチャーという点も、その皮肉ぶりを際立たせていると言えます。

さて、そのハーレーダビッドソンはというと、満を持して発表したのがストリート750というニューモデル。

>> ストリート750 試乗インプレッション

ハーレーにとっては禁断とも言える新設計の水冷エンジンを持つストリートバイク。同メーカーとしても進化することの姿勢を示した形ではありますが、しかしながらその出来映えはおよそハーレーダビッドソンの歴史をリスペクトしているとは思えないほどチープ。溶接の雑さやバランスの悪いスタイリングなど、販売前から疑問視されていた同モデルの実物を見たときのガッカリ感といったら。生産国はインドで、狙いはインドや中国と言った未開の市場への乗り込みですが、目の肥えた日本には不向きなモデル。ハーレーダビッドソンの名にふさわしい所有欲をまったく刺激してこないのです。同じ発展途上国で製造されたバイク同士(スクランブラーはタイ)にもかかわらず、両者を見比べたら前者がみじめに見えるほど。プロダクトに対するメーカーの姿勢が浮き彫りになった結果です。

もちろん、それぞれに企業としての事情があるのは当然のこと。ドゥカティは2012年、ドイツの自動車メーカー『アウディ』に買収されました。これにより、アウディを傘下に持つフォルクスワーゲングループ(以下、VW)がドゥカティの大元となったのです。

VWがドゥカティを手に入れた理由、それはライバルメーカーであるBMWへの対抗と言われています。四輪/二輪両方を持つBMWのバイク部門と渡り合うための買収で、実際にBMWとドゥカティは世界のトップシーンで対峙しているライバル。このスクランブラー開発に関しては、大元からの至上命令とバックアップがあったものと思われます。四輪の力を得ずにオートバイのみで戦いを挑んでいるハーレーの姿勢には敬服するばかりですが、だからといって妥協のプロダクトを出すというのは、メーカーの姿勢としていかがなものか。

試乗前からストリート750に対しては疑問が多く、実際に乗ってみて「悪くはないかも」と思いつつも、しっかりと走りの性能を煮詰めたモデルと乗り比べたときの見劣りといったら。あらゆる面で高いグレードを見せつけてきたスクランブラーとの比較はあまりに残酷。

同じアジアで製造されていながらのこの差、それは哲学と情熱が生んだものと言わざるを得ません。「このぐらいでいいんじゃないか」と浅いライン引きでOKサインを出したハーレーに対し、「中途半端なものをドゥカティのブランドとして出せるか」と細部のディテールにまでこだわり抜いたドゥカティ。結果(完成品)がすべてを物語っています。

ライディングプレジャー、スタイリング、カルチャー、フィロソフィー……スクランブラーには、オートバイを楽しむために必要な要素がすべて詰め込まれていました。それも、いずれも高いレベルで。おそらくなかには「いや、スクランブラーだって別に満点のバイクじゃないし……」と言われる方もいらっしゃるかと思いますが、「だったら、まずはスクランブラーに張り合えるだけのモデルを持ってきてください」と言いたい。

揺るぎないフィロソフィーから生み出されたプロダクトは、クオリティの是非が分かるユーザーに必ず評価される。“これ”という明確な指針があるわけではありませんが、「私たちにとってこれがベストであり、多くの人に触れてほしい製品だ」という想いなくして、人の心は揺り動かせない。モーターサイクルに関する仕事をする身にとって、ドゥカティとスクランブラーが訴えかけてきたものは、オートバイとしてあるべき姿勢だと思いました。

このスクランブラーというオートバイは、今のモーターサイクルの世界に大きな一石を投じました。これを機に、日本のモーターサイクル市場に小さくない波が発生するに違いありません。ただ、私はその波を大いに歓迎します。「ハーレーじゃなきゃいけない」、「ドゥカティじゃなきゃいけない」……そんな縛りは不要です。

魂の込められたものを生み出す努力をすれば、それは必ず伝わる。だからこそ、メディアを名乗る人は“良い”“悪い”を明確に言わねばならないと思います。馴れ合いのことしか言えないメディアは、哲学を失ったメーカーのように没落していくのみでしょう。

多くのスクランブラーが日本のロードシーンを彩ってくれるのが楽しみです。それは見た目だけでなく、良いものが広がっていくことの喜びでもあるからです。

そして願わくば、“してやられた”ハーレーダビッドソンが、再び111年の歴史とともに培ってきた自分たちのフィロソフィーと向き合い、原点に立ち返ってくれるよう。

遡ること1968年、米ハーレーダビッドソンはAMFという大手企業に買収されたのですが、1981年に役員13名の手によって株を買い戻し、再び独立したという苛烈な歴史を持っています。この出来事は『Buy Back』(バイバック)と呼ばれ、ハーレーが「しかるべき品質の製品を提供せねばならない」という強い意志を示した事由でもあるのです。

その役員13名のひとりで、創業者の血を受け継ぐウィリアム G.ダビッドソン、“ウィリーG”を2013年にインタビューしたとき、彼はこう言っていました。

「ブランドをリスペクトしなければいけない」

111年の歴史は伊達ではありません、そこには他メーカーが持ち得ない無限の可能性があるのです。そして、自社のブランドに誇りを持って立ち上がった先達も、その歴史のなかに刻まれています。ウィリーGはそのことを伝えようとしていたのでしょう。もちろん、そんな言葉が出たのも誇りある自社に対する違和感からでしょうが……。

今こそハーレーダビッドソンは、ウィリーGの言葉の意味を探るべき。今、見つめ直さなければ、ハーレーはそう遠くないうちにその歴史に幕を閉じることになるでしょう。何十年か後、ストリート750が黒歴史として笑って振り返られるようにするためにも。

2015年6月6日土曜日

「お金がないから」と言い訳するメディアに未来はない

先日、『フィフス・エステート/世界から狙われた男』という映画のDVDを観ました。主演はベネディクト・カンバーバッチで、ヨーロッパで生まれた内部告発サイト「ウィキリークス」の設立からイラク戦争の民間人殺傷動画公開事件までをフィクション風に描いたスリラー映画です。

内部告発者によってもたらされたありとあらゆる機密を素材のまま公開するウェブサイト「ウィキリークス」をはじめとするウェブメディアは、確かに既存メディアのあり方を大きく変えました。日本においても、とりわけ紙媒体に対して変化を強要したと言っていいでしょう。

インターネット上における情報の氾濫によって、新聞や雑誌といった紙媒体の売り上げが激減した……。媒体によっては直接的な因果関係を見出すのは難しいですが、肌感覚のレベルでも、確かにそのとおりだと思います。かつて情報源が紙の印刷物に限られていたところ、インターネットを利用すれば無料で手軽に得られるようになった。スマートフォンやタブレット機器などハードの発展もあり、その動きは加速化しています。

とはいえ、今なお印刷物需要が完全に消え失せたわけではありません。書店が激減している昨今ですが、駅の売店やコンビニエンスストアの本棚には今もびっしりと雑誌等が並んでいます。個人的には、“ものを大切にする民族”で形成される日本において、紙媒体はゼロにはならないと考えています。ただ、かつて旺盛を誇ったほどの量は求められないとも。

私自身も以前、オートバイに関する出版社のウェブメディアを担当していた経験を持っており、紙媒体の人間からずいぶん疎まれたものです(笑)。曰く、「雑誌でやっていた内容をそのままウェブでやられちゃったんじゃあな」というものが大半でした。

それって、何かズレていませんか?

かつて紙媒体で用いられていた手法をウェブがやっちゃいけない、そんなルールはありません。そもそもウェブメディアは世界中の一般の人が求めたものだからこそ、ここまで広がりを見せているのです。その“世界中の一般の人”には、批判的な紙媒体関係者も含まれているはず。現代において何か調べゴトをするときに、真っ先に辞書を手にする人は少数派でしょう。その批判的な人でさえ、GoogleやWikipediaでリサーチしています。まぁ、ただの妬みとして受け流していますが(笑)。

これまで「紙媒体=メディア(媒体)」と考えられてきましたが、今はそうではありません。「媒体=複数のメディアツール」、つまり媒体のタイトルはひとつのブランドで、アウトプットの方法として紙媒体やウェブ、ムービーという選択肢を持つことが求められています。

とはいえ、そういった時代の流れに合わせて変化できている媒体はごく少数。私が仕事をしているオートバイ業界でも、雑誌という紙媒体にすがりついている出版社は少なくありません。それでもウェブメディアへの移行があまり進まないのは、コスト削減でだましだまし続けているから。

かつて5人いた編集部が、今では3人、いやそれ以下に。これによって人件費が大幅に削減でき、コストパフォーマンスがアップしたかのように見えますが、単純に編集部員ひとりあたりにかかる負荷があがっているだけのこと。それでもウェブメディアによる浸食がとまらないので実売がともなわず(いわゆる「雑誌が売れない」という嘆きの源)、コストを削ったものの焼け石に水。

こうなると、今度はもうひとつの収入源である広告費に力を入れるようになり、いわゆるタイアップ記事が増加。結果的に収入増にはつながりますが、広告主ありきのタイアップ記事ほど繊細さが要求されるものはありません。仕上がったものがクライアントよがりな内容になっていると、「せっかくお金を払っているのに、こんなものを読まされたんじゃたまったもんじゃない」と、購読者にネガティブなイメージを抱かれ、結果的に実売を下げることになるのです。

そして、さらなるコスト源として「外注費の削減」へとつながります。

紙媒体の本質は、印刷物の上に乗っている「付加価値」、いわゆる各媒体ごとのオリジナル情報そのもの。他では得られない特別な情報を「価値あるもの」とユーザーが受け取り、付加価値への対価として雑誌購入代金を支払ってくれるわけです。

フリーランスとして動いているなかで、最近よく耳にするのが「ウチ、お金がないんで」という編集担当者の嘆きの声。編集と営業、その他諸々のコストをかけて紙媒体を刷っているそのご苦労たるや計り知れませんが、とはいえ「制作費」と呼ばれるものがなければ、媒体ごとのオリジナル情報を入手することはできず、付加価値そのものを得ることができません。

オファーの段階でギャランティを言わない、またオファー時に聞いたギャランティを下げてくるというメディアもいらっしゃいます。ここまで来ると、もはやメディアとしての資質を疑わざるを得ません。例えばコンビニでジュースを買おうとして、そこに価格が表示されていなかったら皆さんはどう思われますか? 仕事を依頼する側が事前に金額を明示するというのは当然のこと。

そこで、「いやぁ、ウチ、お金ないんだよね」と卑下たことを言われるケースが実に多い。お金がないことは悪いわけではありません、要は、プロ(外注)にお仕事を依頼されるにあたり、手持ちの費用でどこまでやってもらえるのかを相談すればいいのです。これが交渉の第一歩で、お互いが気持ちよく仕事ができる環境づくりを探っていくことが、ビジネスパートナーと呼ばれる間柄を生んでいけるのだと思います。

「お金がないんだよね」と言われると、外注としては「だから何?」と返さざるを得ません。自分の都合を相手に押し付けようとする方とは、ビジネスパートナーになりたくありませんね。

メディアとしての姿勢もそう。「自社媒体が売れない⇒コスト削減」というマイナスの発想しかないメディアと付き合っても、百害あって一利なし。「ウェブが今、かつての紙媒体と同じクオリティに達しつつある。ならば、これからの紙媒体はどうあるべきか。我々はメディアとして、ウェブや紙媒体、ムービーといった選択肢をどう利用していくべきか」という命題に対する答えを持っていないメディアは、遠くないうちに淘汰されることでしょう。

『フィフス・エステート/世界から狙われた男』で描かれていたウィキリークスのあり方はかなり極端ではありますが、これまでのメディアが大きな転換期を迎えた瞬間を表現していました。ここオールアバウトをはじめ、長らく(そしてこれからも)ウェブメディアに携わる身なので、なおさら強く感じた次第です。

こうした変化の波に対して、日本人は往々にしてアレルギー反応を示すものです。腰が重いというよりは、しっかりと地に足をつけ、時間をかけて知識や経験を練り込む国民性ゆえでしょう。その培った経験そのものを捨て去れというわけではなく、新しいツールへのアプローチそのものを怠るのは誤りだと思うのです。

日頃、好みの雑誌を定期購読している方は、改めてニュートラルな感覚で読み返してみてください。「あれ? これって大人の事情的な記事じゃないの?」という面が見て取れ、そこで気持ちが冷めてしまったら、迷わず購読をやめることをお薦めします。なぜならばその媒体が死に体となりつつある証拠ですし、ひとり、またひとりと購読者が減ることで、時代への変化を強要することができるのです。連敗中のスポーツクラブにあたたかい声援を送っても、決して強くはなれません。ときには厳しい声をかけるからこそ、成長できるのです。

ただ、結果的に外圧ありきの変化しかできないメディアは、そのときは生き長らえたとしても、そう遠くない将来に消え去るものと思いますが……。