2015年6月29日月曜日

『巨人の星』では一流アスリートは生まれない

■少年野球は『巨人の星』のまま?
先日のコラムについて、さまざまなご意見をちょうだいしました。そのなかで『巨人の星』というキーワードを見て、言い得て妙だなと思わされました。

以前、日本サッカー協会で開催された「サッカー本 事始め」というトークショーのゲストであるスポーツライター賀川 浩さんが、初めて日本にスポーツというものが上陸した明治時代から太平洋戦争後、昭和の終わりまでの流れを語られました。スポーツとは元々西洋文化の一端で、キリスト教の安息日に始まる“休日をエンジョイする”ことを目的としたものだったそう。

確かにスポーツは、“心身を健やかに育む”という点では最適な存在ですが、明治日本では富国強兵制度が敷かれていたこともあり、「体育」という国民教育の一環として利用されたと言われています。確かに監督の指示こそが絶対のベースボールが野球として根付いたこと、見方次第では軍隊の訓練かと思うような体育の練習風景など、欧米で楽しまれているスポーツとは様相が異なる印象です。

『巨人の星』と言われたら、否応なく納得させられる共通点がいくつもあります。さりとて、戦後からつい十数年ほど前まではそんなシーンに違和感を覚えたことはありませんし、部活動で監督やコーチに怒鳴られても「ありがとうございます!」と返しては精一杯のパワーを放り出して倒れるまで練習に明け暮れることを当然のものとして受け入れていました。

「そもそも、それっておかしくない?」と言われるようになったのは、ごく最近のことだと思います。以前にも増して諸外国との交流が高まり(海外へ行く機会が増えた)、インターネットの普及でそれまで以上の情報が溢れかえり、コーチングという言葉が一般的になりました。プロのスポーツ選手だって、数十年前とは比べものにならないほどアスリート色が強まりました。

根性論では物事が解決しない、ようやくそのことに気づいたのです。

それでも、スポーツ界の底辺には今なおその根性論がはびこっています。もちろん情熱なくしてスポーツに取り組んでも良いプレーは生み出せませんが、論理的に物事を運ぼうとする考え方なくして、建設的な発展はありえません。


■少年野球と変わらない高校野球の実情
ミスを悪として咎める風潮は、少年野球だけのものではありません。おそらく日常生活のなかでも感じられるシーンが多々あるでしょう。振り返るに、長い年月をかけて積み上げられてきた日本人古来の伝統、いや性質というべきか。ロジカルに物事を進めたいのに、精神論で話を台無しにされるというジレンマを感じた方も多いでしょう。

他の競技とは違い、長い歴史とともに国民に親しまれてきた野球という存在には、これまでヨシとされてきた“悪しき伝統”が随所に見られるのも事実。そのひとつが、高校野球です。

真夏の炎天下、ひとりの高校生ピッチャーが連戦連投を繰り返す……。これまで美談として語り継がれてきましたが、ニュートラルな目で見れば、異常というほかない光景です。プロの選手だってまず連投などしません。選手層の問題が一番大きいのでしょうが、だからといってひとりの未来ある選手を壊していいという道理にはなりません。

“選手がはつらつとプレーできる環境を整える”ことがスポーツ本来の目的であるにもかかわらず、どこでどう間違えたのは“選手を痛めつける”ことになっているケースの多いこと。

「とあるスポーツクラブに入会したら、実は自衛隊でした」

とまで言ったら言い過ぎかもしれませんが、より良い選手を育てることを目的とするなら、コーチングそのものを見直すべき。そうしたら、夏の甲子園でぶっ倒れるまでピッチャーに連投させるなどという愚行に走ることはまずありません。

忠誠心の高さという日本人の良い部分が裏目に出た……いや、良い部分をうまく利用したシステムが、スポーツ根性論でしょう。誤解なきよう申し上げますが、ポジティブな姿勢を生む気持ちなくしてより良い取り組みは生まれませんが、かといって精神論だけですべてを解決しようというのは誤りです。それって、徹夜自慢する勘違い会社員とさして変わりません。


■クラブの選び方が重要になってくる現代
現代の少年野球(リトル)の指導者には、元プロ選手という人もいれば、「甲子園に出たことあるんだぜ」という元高校球児、そして「子どもらに教える程度なら」という野球経験者のおじさんと、さまざまなタイプが入り交じっていることでしょう。もちろんそれぞれのチーム事情(運営に関する資金や母体の違いなど)ありきでの人選だと思いますが、これからの時代、コーチングに関する独自理論を持たない指導者のもとには人は集まらないでしょう。

逆もまた然りで、選ぶ側も指導者の資質をしっかりと見極めなければなりません。いくらすごい肩書きを持っていても、指導のイロハすらままならない人のもとでいくら時間を費やしても向上するのは難しいですし、逆にノンキャリアでも“育む”という才能を有した指導者も存在します。

じゃあ、その違いを見分けるには?カンタンです、その指導者に「育成の目標」について聞けばいいのです。

スポーツを通じて、子どもたちにどんなことを学んでほしいのか、何を目標にしてほしいと考えているのか。少年少女を対象としたスポーツクラブにおける育成は、教育と同等。とすれば、育成の目的が明確でなければなりません。

特に「勝負ごとについての考え方」はもっとも重要だと思います。スポーツで人が死ぬことはありませんが、勝負ごとゆえ必ず勝敗が分かれます。勝者には賞賛が、敗者には屈辱が。ともすれば人生の縮図とも言うべき明暗を子ども時分から学ぶわけですから、指導者が勝負ごとに関する教育をするうえで、何を伝えたいかが明確であるべき。

そして、練習風景や試合を観る。“言うは易く、行うは難し”で、結局精神論だけで乗り越えさせようとする指導者のもとにいても時間の無駄。自分の子どもには最高の環境で楽しませてやりたい、高みを目指させてやりたいと願うものです、時間をかけて最適なクラブを選びましょう。そうすれば、必然的に優秀な指導者のもとに人は集まりますし、時代の流れを読み取れなかったクラブは自然消滅していくのみ。

何事も同様だと思いますが、“利用する側”が真理を見極める目を持つことこそが、環境をより良くする最善策なのではないでしょうか。

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