2014年7月21日月曜日

望まれない2020年東京オリンピック 〜お上と国民の意識の相違〜

巨額の利益を生み出すことを目的に
貧困層を遠くへ追いやる国際ビジネス

ラケル・ロニックさん
「開催が決まったとき、ブラジル国民は大いに喜びました。特にサッカーは私たちブラジル人にとってはアイデンティティーのようなもの。『世界にブラジルの盛り上がりを見せられる!』、そんな想いが国中を覆い尽くしていました」

2014年ブラジルW杯、そして2016年リオ五輪の開催が決まったときのブラジル国民の反応は?という質問に、サンパウロ大学の建築学および都市計画の学部の教授であり、国連の「適切な居住への権利の人権委員会」特別報告者をつとめるブラジル人のラケル・ロニックさんはそう答え、ひといきついてからこう続けました。

「ところが、ブラジルW杯開催が近づくにつれ、“国際スポーツイベントのための都市開発事業”という名目のもと、ファベーラ(スラム地区)に住む人々が都心部から追い出されていったのです。空港からスタジアムまでのインフラ整備や最新のテクノロジーを用いた建設ラッシュなどが相次いだのですが、それも都心部に住む富裕層のため、また海外からやってくる外国人観光客のための投資でしかありません」

ブラジルW杯開催前、各地で多くのデモや暴動が起こっていたのを覚えていますでしょうか。「W杯にかけるお金があるなら、医療や教育に使え」という主旨のデモを、ニュースなどで目にしたことがあるでしょう。「あのサッカー王国ブラジルで、まさかそんなことが」という驚きとともに知った報道も、W杯に突入するや否や沈静化した感もあり、やや記憶の片隅に追いやられていたかと思います。

7月19日(土)、東京・台東区の浅草聖ヨハネ協会で開催されたシンポジウム「ブラジルで何が起こっているのか サッカーW杯への抗議運動の背景にあるもの」(主催:反五輪の会)にお邪魔し、ゲストとして招かれたラケル・ロニックさんの話を伺ってきました。

2020年、東京でオリンピックが開催されることを皆さんご存知のことでしょう。スペイン・マドリード、トルコ・イスタンブールといったライバルに競り勝ち、手にした念願の開催権。「おもてなし」の流行語を生んだこの出来事は号外が打たれ、東京のみならず日本という国をあげての一大イベントとなろうとしています。

同じように、開催が決定した際の盛り上がりようがすさまじいところは、日本もブラジルも一緒だと思います。では、開催決定から開催するまで、そして開催後はどうなっていくのか。ごく一部の人を除いて、東京都民、そして日本国民もまだそこまでイメージできてはいないでしょう。


政府主導から民間企業主導へ
富裕層のためのイベントへと変わった

W杯開催前のブラジルでの暴動は、虐げられた貧困層による反発でした。国際的スポーツイベントは、その開催地がどこかで巨額のお金が左右される巨大ビジネスです。開催に向け、会場の新設やインフラ整備、都市再開発など“開催後の回収”という名目でどんどんお金が投じられ、地価が高い都心部の土地が切り開かれていきます。そして、そのターゲットとなるのが、古くからその地に住まう貧困層です。

実際、ブラジルでは割りの合わない立退料に、30キロ以上も離れた場所への引っ越しを強いられるなど、とても立ち退いてもらう人に対するリスペクトを感じられない待遇ばかりなのだと言います。しかも開催日は決定していますから、立ち退きを渋っていると次第に国は強硬手段に出てきて、いわゆる行政代執行という強制力をもって追い出していくと言います。

巨額の利益を生み出す国際的スポーツイベント。しかしそこで得たお金が、国民や開催地へと還元されていないのが実情だとロニックさんは言います。

「五輪が開催された北京やアテネ、W杯が開催された南アフリカの各都市など、すべて同じような状態です。“開催のために”と苦渋の決断を受け入れたにもかかわらず、大きな利益がどこか知らないところへ行ってしまっている。1992年バルセロナ五輪以降に見られる傾向です」

ロニックさんは続けます。

「W杯や五輪といった国際的メガスポーツイベントは、1970年代までは冷戦時代ということもあり、国威発揚を目的に国同士で開催権を奪い合っていました。しかし1980年代より、民間企業がスポンサーについての巨大ビジネスへと変貌をはじめ、現在の姿へと肥大化したのです」

今回のブラジルW杯やリオ五輪について、開催決定後に当初予定していた経費だけでは足りないことが判明、「さらにお金が必要だから」と、税金や光熱費を強制してきたのだと言います。いくら自国の誇りをかけたメガイベントのためとはいえ、ここまでされれば国民だって堪忍袋の緒が切れようと言うもの。話を聞けば聞くほど、ブラジルでのあの暴動に納得せざるを得ませんでした。


開催決定という御旗を掲げた脅迫?
弱者を排除した醜きイベントでは

お気づきの方もいるでしょう、東京五輪についてもすでにブラジルに似た兆しは出てきています。当初予定されていた新しい国立競技場のリニューアル後の姿は変更されることとなり、IOCへのプレゼンテーションのとき以上の予算編成となってきています。確かに、実際に開催準備を進めていくうえで想定外の事態は起こりえるものとは思いますが、「だって開催が決定したんだから、仕方ないじゃん」と、税金や光熱費をアップするのはもはや脅迫です。まだそうした方針が打ち出されたわけではありませんが、仮にブラジルのような施策を日本政府が採った場合、東京都民および日本国民はなんらかの意思表示をする必要があるでしょう。

また、これはFIFA(国際サッカー連盟)が設定しているW杯用ルールには、「特別建設法」や「W杯開催期間内における超法規的措置」などが設定されているそうです。いずれもFIFAと開催国のあいだでかわされる契約に記述されているもので、開催国の法的権限を越えた特別ルールとされるものだとか。例えば建築物を建てる際には日照権などの周辺住民が有する当然の権利を考慮せねばなりません。しかしこの特別ルールの場合、そうした当然の権利は一旦無視して滞りない作業を進めることが優先されるのだと言います。超法規的措置も同様で、スタジアム周辺での犯罪行為については、通常の手続きではない手順で裁定が下されるのだとか。

事実、国立競技場のリニューアル案を手がけたデザイナーのザハ・ハディドさんの最初の案では、残される予定だった都営霞ヶ丘アパートが後のリニューアル案により、撤去対象とされているそうです。

国として立ち退きを申し立てるわけですから、当然現状以上の住環境を提案することが求められます。長年培ってきた土地勘やコミュニティ、職場へのアクセス、その他諸々、立ち退かされる住民への負担は相当なもの。その理由が「オリンピックのためだから」と言われて、ハイそうですかと納得する人は少数派でしょう。極端な話、「わずか20日間足らずのイベントのために、どこか遠くへ行ってくれ」と言われているわけです。相当のお金でも積まれない限りは応じられませんよね。一方で、開催は刻一刻と迫ってきています。いずれ行政代執行という強制立退を強いられることは目に見えています。


問うべきは国民の意思
そこに想いはあるのか

ディテールの話をすればキリがないのですが、こと東京五輪に関して言わせてもらうと、論点はひとつ。

「2020年東京五輪の開催は、東京都民が望んだものなのか」

結論から言いますが、W杯も五輪も、すべて政府や行政が「やりたい」って言って始めたこと。僕は彼らより「東京でオリンピックを開催しようと思うんですが、皆さんどう思いますか?」と聞かれた覚えは一度もありません。

誤解なきように言うと、僕はサッカーが大好きですし、リニューアルした国立競技場でサッカー五輪代表の試合をナマ観戦してみたいとも思います。W杯だって、いつの日か自国の単独開催で存分に楽しんでみたいとも思っています。

しかし、国民が望んでもいないことを「やることが決まったんだから」というのは筋違いも甚だしいと思うのです。かき集めた税金で勝手に予算組みして、プレゼンテーションに投資しまくってなんとか開催権をもぎ取った(東京も大阪も一度ずつ招致に失敗し、大赤字こいていますが)ってだけの話です。そのうえ、さらに都民や国民に負担を強いてまでやろうというスポーツイベントに、一体何の意味があるのか。

そして、開催することによって得た利益は、きちんと国民に還元されるのか、ここも不明瞭なままです。大手広告代理店や大手ゼネコンにどんどんお金が注ぎ込まれ、貧困層を排除しての都市開発が進んでいくのは明白。結局は利権絡みの企業や関係者が美味しい思いをするだけなのでしょう。

奇しくもブラジルW杯で垣間見えたことですが、日本にはまだ“国全体でスポーツ競技を楽しむ”という文化がありません。W杯や五輪といった伝統的な巨大スポーツイベントは、経済的先進国というだけで手がけては後で不幸なことになります。それは開催した国の人々もそうですが、訪れた人々にとっても、です。

「日本のスポーツ文化発展のために」という大義名分を掲げた金儲けしか考えていないのであれば、招致そのものの疑問を抱かざるを得ません。政府主導である点もそうですが、日本という国がそこまでピュアな想いで五輪を開催したいと思っているのでしょうか。

「予算がかさんだ」、「お金が足りない」、「もっと最新テクノロジーを投入した施設を」……。

そんな問題が起こったときに、どこに立ち戻るのでしょう? それ、オリンピックに必要なもの? 将来の日本のスポーツ文化に必要なもの?

よりどころとなる志がどこなのか、現時点でははっきりと見えません。そして、そのよりどころがないまま時間が経過していくと、ブラジルと同じような事態に陥る危険性もあると思うのです。


今一度国民と話し合うべき
日本はなぜ五輪を開催するのか、と

先頃閉幕したブラジルW杯。思い返せば、開催前の暴動は想像していたほどの事態にはおよばず、残念ながら開催国は木っ端微塵に砕け散っていましたが、概ね成功と言える終焉を迎えたのではないでしょうか。

「やっぱりブラジル人にとって、サッカーは心のよりどころなんです。だから、どれだけ政府の施策が許せなくても、いざ開幕すれば訪問客を手厚くもてなしてあげたいと思うもの。W杯開催期間中は、国民が路上でバーベキューを催して外国人を歓迎していた場面を見ました。ええ、ブラジル代表のことについては聞かないでください、1-7というスコアは辛すぎました……」

苦笑いしながら、ロニックさんは続けます。

「2年後のリオ五輪に向け、おそらくブラジルでは再びデモが起こるでしょう。そして今年10月の大統領選挙で現職のジルマ・ルセフ大統領が落選したりすれば、その方策は大きく転換してしまうかもしれません。ただ、誰がリーダーになったとしても、人々の権利を守り続けなければならないことに変わりはないのです」

守られなければならない人々が攻撃されてしまう自体が起こりえる、ロニックさんはそう警告を残していきました。特に日本は高齢者の多い国でもあるので、はたして政府がそこまで配慮してのコントロールができるのか、甚だ疑問です。こうしたさまざまな問題について、東京都民だけでなく、日本国民全体で考え、そして結論を出さねばならないことなのでしょう。

私たちは、なぜオリンピックを開催したいのか。

オリンピック開催の向こうに、どんな価値を見いだそうとしているのか。

すべてとは言いませんが、大多数の国民が納得できる回答が出ない限り、オリンピックもW杯も開催すべきではないのかもしれません。汚職が増えたIOCやFIFAの連中に関係なく、自分たちの声で開催の是非を判断せねばならないのでしょう。

日本とブラジルとでは、文化的背景が異なります。だから杓子定規ではかったように「こうなる!」などとは言い切れないと思います。ただ、日本人として自国のカルチャーを鑑み、そして政府や行政の動きを見れば、日本人だからこそ気づく疑問があるのではないでしょうか。

僕自身は、東京五輪について反対しているわけではありません。ただ、「賛成!」と声高に言うだけの根拠が見つからないのです。

2014年7月17日木曜日

アディダスの暴挙? メッシのMVP選出に疑問の声噴出

ドイツの優勝で幕を下ろしたW杯2014ブラジル大会。決勝戦はライブで観ていましたが、攻めのドイツに守りのアルゼンチンという構図がはっきりと分かりつつも、両者の特徴が発揮された好ゲームだったと思います。1990年代ぐらいまでは、「絶対に優勝したい=負けられない」という両者の思惑から退屈なゲームになりがちなW杯決勝戦でしたが、近年は攻撃的スタンスが強くなったからか、観る者にとっては楽しくも緊張感のある良い試合が多いようです。

そんなW杯ブラジル大会ですが、最後の最後でひとつ腑に落ちないことがありました。大会MVPにアルゼンチンのリオネル・メッシが選ばれたことです。

サッカーに興味がない方でも、その名を耳にしたことはあるでしょう。世界最強(のひとつに数えられる)クラブチームのF.C.バルセロナ(スペイン)のエースストライカーにして、バロンドール(ヨーロッパ年間最優秀選手)に3年連続で輝いた天才。残念ながらW杯には一歩手が届きませんでしたが、それでも彼がマラドーナやペレに並ぶレベルの選手であることに疑いの余地はないでしょう。

過去の実績なら歴代スーパースターに比肩するメッシですが、今大会でのパフォーマンスはと言われると、正直可もなく不可もなく、といったところ。グループリーグではロスタイムの同点ゴールなどを含め4ゴールを奪取しましたが、決勝トーナメント進出とともに彼へのマークは厳しさを増し、ゴールはもちろん効果的な働きはあまり見受けられませんでした。

結果として決勝戦の舞台まで勝ち上がってきたアルゼンチンですが、メッシがその原動力になっていたかと言われると、「?」と言ったところ。1994年アメリカ大会でのロベルト・バッジョ(イタリア)、1998年フランス大会でのジネディーヌ・ジダン(フランス)、2010年南アフリカ大会でのディエゴ・フォルラン(ウルグアイ)のような活躍には遠く及ばないレベル。光るものがなかったわけではないですが、それならコロンビアのハメス・ロドリゲスやブラジルのネイマールらの輝きの方が上だったと思います。

結局は、ビジネスなのでしょう。

このMVP選考は決勝戦の前までに投票が締め切られるのですが、候補にあがった10名のうち、8名がアディダスとサプライヤー契約をしている選手だそうです。もちろんメッシもアディダスと契約しています。そしてアディダスは、このW杯の公式サプライヤーでもあるのです。日本代表チームの件もそうですが、アディダスの露骨なビジネスライクな動きといったら、正直目に余るほど。今回のMVP選考も、アディダスの肝いりと見ていいでしょう。

近年、フットボールビジネスは熾烈を極めています。「どこのクラブがどのメーカーのユニフォームを着るのか」、「あの有名選手はどこのスパイクを履くのか」といった話題は日常茶飯事。クラブ間はもちろん、国際Aマッチの親善試合レベルなら、マッチメイクにも影響するほどです。なぜならば、例えばナイキのユニフォーム同士の国の試合にすれば、その試合の写真や映像がそのまま広告・宣伝につながるわけですから。

香川真司の実力を疑うつもりはありませんが、彼に代表の背番号10を背負わせたのもアディダスだと言われています。中村俊輔が代表から縁遠くなったことから本田圭佑が狙っていたとも言われていたのですが、本田が怪我で代表招集を見送ったときに、アディダスが香川に10番を押し付けたのだとか。

いわゆる都市伝説的な域を出ない話ではありますが、日本代表がアディダスジャパンと歩み出した時期が1998年フランス大会以降で、中村俊輔、香川真司と歴代10番がアディダス契約選手というところが偶然のものとは思えません。ちなみに2002年日韓大会にて、フィリップ・トルシエ監督が最終23名のメンバーから中村俊輔を外す決断を下した際、日本サッカー協会はもとよりアディダスジャパンも大騒ぎになったと言います。

フットボールは、世界はもちろん日本においても大きな影響力を持つコンテンツとなり、代表チームや代表選手の一挙手一投足がビジネスを左右することから、あらゆる企業がその恩恵にあやかろうとさまざまな手を講じています。本来の目的(代表チームの強化)からはかけ離れた動きであっても、こういうご時世ですから致し方ないことなのかな、とも思いつつ、しかしながらエンドユーザー(消費者、利用者)がその是非を見極めればいいだけだとも思う今日このごろ。

メッシのMVP選出については、あらゆるところから疑問の声が噴出しています。FIFA(国際サッカー連盟)のブラッター会長まで疑いの声を出すあたり、「アディダスの独断で決めちゃったんじゃないの?」という邪推までしてしまいそうになりますね。ただ、ここまで疑問視される選考に意義など存在しないわけですから、むしろメッシが可哀想に思えるほど。

金さえ生み出せれば、何をやったっていい。

モラルハザード以外の何ものでもありません。「綺麗ごとでメシが食えるか」という声が聞こえてきそうですが、綺麗ごとすら貫けないビジネスに価値など生まれません。そうしたスタンスの人ないし企業は、一時的に儲かったとしてもその栄華が長続きすることはないでしょう。W杯での反省もせず、次の監督人事の話題を持ち出して問題をうやむやにしようとしている組織なんかは、特にそうでしょうね。

2014年7月9日水曜日

サッカーにすら熱くなれない国に、何ができるというのか

■あってはならない歴史的大敗
サッカーの試合を観ていて悲鳴をあげる……よほどのことでもない限り、そんな場面には遭遇するものではありませんが、ブラジルが立て続けに失点を重ねるたび、得体の知れない恐怖を感じました。

1-7。W杯という大舞台でこれほど大差がつく試合はそうそうありません。しかも決勝トーナメントの準決勝で、開催国であり、王国の名を冠せられたブラジルが。わずか6分間で4失点を喫し、スコアは前半だけで0-5という破滅的なものに。サッカーにおけるセーフティリードは3点差と言われていますが、5点差がひっくり返る試合などまずありません。ハーフタイム、ロッカーへ引き上げるセレソンの表情も憔悴し切っており、後半戦は“屈辱の45分”になることは誰にでも想像できたことでしょう。

開催国にして王国ブラジルがこんな形で敗れ去るとは、誰もが予想できなかったと思います。確かにドイツは強かった。しかし、たとえ敗れるにしても僅差に違いあるまい。W杯史に残る大敗が、ブラジルの身に降りかかろうとは……。

ただ、危うさはありました。勢いのあるチリと対峙した決勝トーナメント一回戦、辛くもPK戦で退けたセレソンは、ネイマールをはじめ多くの選手が泣き叫んでいたのです。

感情を爆発させると、その次には燃え尽きてしまっている——。1998年フランス大会の準決勝で怨敵オランダを撃破したブラジルは、マリオ・ザガロ監督はじめ全員が涙して勝利を喜びました。しかし数日後、決勝の舞台に登場したブラジルはまるで憑き物がとれたかのように覇気がなくなっており、ジダン率いるフランス代表に一方的に叩きのめされたのです。“喜びすぎたことで、緊張感が切れてしまった”。2002年日韓大会で決勝トーナメントに進出した日本代表もそう、緊張感が切れてしまったトルシエ監督は、過去に試したこともないフォーメーションを採用し、自滅しました。

チリ戦でのセレソンの感情の爆発は、見ていて危険だとは思いました。一方で、王国での開催ということから「優勝こそノルマ」という想像を絶する重圧がセレソンにかけられていたのも事実。これは王国たるブラジルでしか起こりえないものですし、ネイマールはじめメンバーが日々感じていたプレッシャーは誰にも分からないもの。

PK戦というのは水物です。特に実力が近くなればなおさら。「もし決勝トーナメント一回戦で敗れ去るようなことになれば、俺たちはどうなってしまうんだろう」、チリとのPKに臨むセレソンの心中や察するに余りあります。水際で得た勝利に涙が出たのも、当然と言えば当然。

セレソンは、極限状態だったのです。


■小さくなかった攻守のキーマン不在
本大会におけるダークホースのひとつコロンビアとの接戦を制し、ついに準決勝へとコマを進めたブラジルでしたが、エースであるネイマールをアクシデントで欠くという非常事態に見舞われます。さらに守備の要チアゴ・シウバが累積警告でドイツ戦出場停止というおまけ付き。ドイツ戦前の国歌斉唱にて、キャプテンを務めるダビト・ルイスとGKジュリオ・セザールがネイマールのユニフォームを手に熱唱するシーンは、彼らの「ネイマールのために」という熱い友情の表れでした。攻守のキーマンを欠くブラジルはやや分が悪いかと思っていましたが、もしかしたら開催国が奇跡的な勝利をおさめるのかも……。そう期待させる雰囲気がスタジアムに広まっていました。

最初の失点はまだ余裕があったように思えます。前半の早い時間帯であったことと、本大会でも逆転してきた経験によるものでしょう。試合開始からの“人数をかけた厚みのある攻撃姿勢”は変わりませんでしたから。

2失点めで、緊張の糸が切れたか。

決して逆転できない点差ではありませんが、相手は強豪ドイツ。しかも、ブラジルの攻撃に真っ向から立ち向かい、前がかりになった背後を突いての追加点。「まずは同点」と意気込んでいたブラジルの気持ちを削ぐには十分すぎる1点でした。

そこからは、もう悲劇以外の何物でもありません。確かにレギュラーとサブでの実力差があったとはいえ、チアゴ・シウバの不在がここまで影響するとは。

ディフェンスリーダーが持つ影響力は計り知れません。チームを最後尾からバックアップし、チームの陣形そのものを司るキープレーヤーとしての役割を担っているのですが、「どうやって穴を埋めるのか」「味方をどう動かすのか」「誰にカバーリングさせるのか」などなど、高いマネジメント能力が求められます。おそらくこの日のセレソンは、普段聞こえるはずの声が聞こえないことも含め、小さくない不安が2失点めによってパニックを引き起こしたのでしょう。確かにブラジルの守備は堅牢ではありませんでしたが、あそこまで崩壊するとは。


■孤独に戦い抜いた英雄たち
本大会において、強豪国が圧倒的な攻撃力を持ち合わせていることもあって、守備力が高くない国は勝ち上がれないという傾向が見られました。当たり前っちゃあ当たり前なのですが、今回は特に極端だなぁ、という印象です。

勝ち上がるために、まずは守備から。

勝負事における定石です。残念ながら我が日本代表も守備(というよりはチームとして)の脆さを曝け出して惨敗したわけですが、逆にチリやコスタリカ、コロンビアのように安定した守備力と「これぞ」という自分たちのアタッキングフォームを持っている国が勝ち上がっていきました。

その点で言えば、ブラジルはチアゴ・シウバやダビド・ルイスに頼りすぎていたのかもしれません。もちろんそれだけが原因ではないでしょうが、ただブラジルという国の性質から「守備偏重のチームなどありえない。ボールを支配し、いかに美しく勝利するか」が求められることもあって、まるで蝉のように生き急いだ戦い方をしていました。

そんな薄氷を踏むかのような試合を続けたことで、選手の心は極限状態へと追い込まれ、2失点めで「もう勝てない」と悟った瞬間に瓦解したのでしょう。

かといって、誰も責めることはできません。もしかしたらブラジルの実力は優勝を口にするほどのものではなかったのかもしれません。しかし、“絶対勝利”を課せられ、熱烈な国民の後押しとプレッシャーを受けた選手たちが魂を削った試合をこなしたことで、準決勝の舞台まで突き進んで来ることができたわけです。残酷なまでの仕打ちとも言える結果ではあったものの、セレソンは持てる力以上の推進力で勝ち上がってきました。決して悲劇のヒーローなどではなく、孤独に戦い抜いた彼らは英雄として賞賛されるべきだと思います。


■“しょせんサッカー”にすら熱くなれない国
決勝戦と3位決定戦を残していますが、このブラジル大会を通じて、世界と日本のあいだには、大海原以上に大きな隔たりがあることを再認識させられました。国によって歩んできた道、積み重ねてきた歴史など違いはあれど、ことサッカーという競技ひとつを見ても、こうも国としての温度差があるものなのかと思った次第です。

“サッカー”はあくまで指標のひとつ。何かに熱狂するという点だけで言えば、日本人の熱狂は諸外国のそれと比べてもかなり異質なように思えます。端的に言えば薄っぺらい。深みがないから、戦うものに対して愛情ある声をかけられないし、その薄っぺらさが透けて見えるから“戦うもの”と“支えるもの”のあいだに大きな温度差が生まれる。

「何を熱くなっちゃってんの。しょせんサッカーでしょ」

ええ、そうですとも。しょせんサッカーです。では、何だったら世界と渡り合えるのでしょう? もちろん、日本が世界に誇れるものはいくつも存在します。が、そのいずれかに対して国全体が熱くバックアップしているでしょうか。逆に言えば、“サッカーにすら熱くなれない国に、何ができるんだ”とも。

例えば、コスタリカ。凱旋帰国を果たした代表チームを、国民全員が賞賛とともに出迎えました。「世界の強豪国を相手によくやった! 君たちは我が国の誇りだ!」 もし仮に、コスタリカがGLで敗退して帰ってきたとしても、彼らの戦いぶりを見た国民は同じように暖かく出迎えたことでしょう。それぐらいコスタリカ代表チームは、魂を揺さぶるような熱いものを感じさせてくれました。寒々しい試合と結果を手に帰ってきた代表チームを黄色い声援とともに出迎える我が国とは比べるべくもありません。

今の日本では、「世界で勝つ」などと口にすることすらおこがましい。世界に名を馳せる名将を呼んでくれば解決できるというレベルではありません。まずはその隔たりをどう埋めていくか、それを考えるところから始めなければ、いつまで経っても発展途上国のままでしょう。

日本サッカー界は、この“ブラジルの惨劇”を目に焼き付けておかねばなりません。この域に達したいと思うのであれば。

2014年7月7日月曜日

プリンスリーグって知ってます?

■若い選手にレベルの高い経験を
日本を含めた世界各国のプロサッカー界には、ふたつの対戦形式があります。ひとつはホーム&アウェー方式での総当たりとなるリーグ戦形式、そして一発勝負型のトーナメント方式です。W杯はその両方をミックスしたもので、まず4ヶ国総当たりで上位2チームを決め、そこからトーナメント形式へと移行します。なぜこんな方法を採用するかと言うと、仮にW杯がトーナメント方式のみで運営された場合、初戦を終えた段階で半数の国が大会を去ってしまうから。せっかく本大会までたどり着けてもひとつの敗北ですべてが潰えちゃうわけです。これじゃあ参加国にも申し訳が立たないし、何より大会が盛り上がらない。「リーグ方式を取り入れれば、最低でも3試合はできる」「でも開催期間は限られているのでトーナメント方式も」ということから、このミックス型と相成ったわけです。UEFAチャンピオンズリーグなども同じ方式ですね。

前置きが長くなりましたが、一発勝負型のトーナメント方式と違い、リーグ戦は運営期間が年間単位と長いものにはなりますが、シーズンを通じたチームの安定感というもの推し量れますし、何より選手の実力を伸ばす実戦経験をより多く積むことができます。ホーム&アウェー型で10チームが参加するリーグならば、18試合は経験できるわけです。経験が積めて伸びしろが期待できるという意味で言えば、小さい子どもから学生まで若いプレーヤーにはうってつけの形式と言えます。

実は日本には、プリンスリーグという18歳以下のプレーヤー(高校生など)のためのリーグ戦が存在します。正式名称は「高円宮杯(たかまどのみやはい)U-18サッカーリーグ プリンスリーグ」。北海道・東北・関東・北信越・東海・関西・中国・四国・九州のエリアごとに催されるリーグで、高校サッカー部とJリーグクラブのユースが総当たりするリーグ戦なのです。

18歳以下という年代で有名なサッカーの大会と言えば、全国高校サッカー選手権大会でしょう。いわゆる“冬の高校サッカー”と言われるもので、聖地・国立競技場を目指して高校生がピッチを駆け回る姿をお正月のテレビで観たことがあるという人もいらっしゃるでしょう。各都道府県での地区予選から本大会まで、一発勝負のトーナメント方式で運営されています。


■日本サッカーの強化に直結する活動

非常に歴史の長い有意義な大会ではありますが、いわゆる一発勝負で勝敗が分かれてしまうため、せっかくの貴重な経験の場にもかかわらず、一試合で大会を後にする学校が半数にも及びます。また、参加資格は高校サッカー部ということで、プロ予備軍でもあるJリーグクラブのユースチームは参加できません。

もっとも多くのことを吸収できる年代がたった一試合でチャンスを奪われるというのはいかがなものか。ならば、異なる環境でプロ予備軍として育成されているユースも交え、多くの経験が積めるリーグ戦形式を実施しよう——。プリンスリーグ構想は、そんな発想から生まれました。

知名度はないけれど“ダイヤの原石”がひしめき合うプリンスリーグ。残念ながら冬の高校サッカーほどの注目度は集められていませんが、こうした地域密着型の活動が若い芽を着実に育て、ひとり、またひとりプロへの階段をあがっていっています。今の日本代表にも、このプリンスリーグで育てられたという選手がいるのです。

地道でも着実な育成に注力することで、よりスケールの大きな選手が生まれ、日本サッカーの土台が分厚くなり、ひいては日本代表チームを盤石なものとしていく……。“日本サッカーを育てる”“日本サッカーを強くする”ためには、こうした活動にスポットライトを当て、それぞれの地域の人がサポートしていくことでより高い頂へと選手を送り出していかねばなりません。メディアがこうしたところを取り上げることも、強化を手助けすることにつながるのだと思います。

このプリンスリーグの上には「プレミアリーグ」というものがあり、プリンスリーグの成績上位のチームが東西のエリアに分かれて戦う上位リーグです。そして東西のチャンピオン同士で行なわれるチャンピオンシップで雌雄を決し、シーズンチャンピオンを決めるというもの。

ご興味がある方はぜひ、プリンスリーグの情報に目をやってみてください。もしかしたら地元の高校やクラブユース、また地元出身の選手がリーグで活躍しているかもしれませんよ。
 
>> 高円宮杯U-18サッカーリーグ プリンスリーグ
 

2014年7月6日日曜日

コスタリカの快進撃に見る“日本に足りないもの”

■清々しかったコスタリカの戦いぶり
W杯ブラジル大会は準々決勝の日程を終え、ブラジル、ドイツ、アルゼンチン、オランダがベスト4として準決勝へとコマを進めました。

この準々決勝のなかで個人的に注目していたのは、オランダと対峙したコスタリカ。中米に位置する九州と同じぐらいの面積の国は、大会前の下馬評を覆し、1990年W杯イタリア大会でのベスト16という最高成績を更新する快進撃を見せました。しかもイタリア、イングランド、ウルグアイという世界の列強国と同じ“死のグループ”を首位で突破するという快挙まで。

残念ながらその足をとめることとなった準々決勝オランダ戦においても、情熱的かつしたたかな試合運びを見せてくれました。まるでイタリア代表のカテナチオをほうふつさせる超守備的布陣でゴール前を守り、スコアレスドローで120分間を耐え続けたのです。おそらくヨハン・クライフには「世界一つまらないサッカー」と評されることでしょうが、一発勝負の決勝トーナメントで圧倒的な攻撃力を誇るオランダと自分たちの力量を推し量り、導き出した唯一の戦法だったに違いありません。

そう、コスタリカは最初からPK戦狙いだったのでしょう。もちろん、あわよくばカウンターで一発というイメージも持っていたでしょうが、大前提は「オランダに一点もやらないこと」。勝負に徹したリアリストとして、控え選手も含めた23名の選手が任務をまっとうしたということです。PK戦への突入が告げられた120分間の試合を終えるホイッスルが鳴った際のコスタリカの喜びようを見れば、ミッションを成し遂げた達成感が伝わってこようというもの。次のアルゼンチン戦を想定し、90分間で試合を終えたかったであろうオランダの歯がゆい表情とは対照的でした。

結果的にPK戦で敗北を喫したコスタリカでしたが、試合後の晴れ晴れとした表情は見ていて爽快でした。コロンビアとの戦いを終えた日本代表の面々とはまったくの真逆。同じ敗者でも、すべてを出し切った者と不完全燃焼の者とではこうも差が出るのか、と思わされるほど。

日本はW杯前、コスタリカと親善試合を行い、彼らを退けています。もちろんその一試合だけで彼らと因縁づけてしまうのは安直ではありますが、何がここまで明暗を分けたのだろう。改めて、コスタリカという国を調べてみました。


■快進撃の原動力を考察する
正式名称はコスタリカ共和国。アメリカ大陸のほぼど真ん中、ニカラグアとパナマに挟まれたカリブ海の小国で、前述したとおり九州よりもやや大きいぐらいの国土を持ちます。かつてスペインに植民地とされた歴史を持つことから、メキシコやアルゼンチンなどと同じく公用語はスペイン語。人口は2008年時の総計で約460万人。2010年当時の福岡県の人口が約500万人ですから、大国と比べるまでもないでしょう。

盛んなスポーツはサッカー。スペイン語圏と考えれば納得できそうですが、国民的スポーツというほどの好成績を残しているわけではありません。ことW杯に関して言えば、初出場を成し遂げた1990年イタリア大会からの成績を見てみましょう。

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・1990 イタリア大会/ベスト16
・1994 アメリカ大会/北中米カリブ海予選敗退
・1998 フランス大会/北中米カリブ海予選敗退
・2002 日韓大会/グループリーグ敗退
・2006 ドイツ大会/グループリーグ敗退
・2010 南アフリカ大会/北中米カリブ海予選で敗退
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旧ユーゴスラビアの名将ボラ・ミルティノビッチに率いられた1990年イタリア大会で初出場にしてベスト16という快挙を達成しましたが、以降の成績を見ればさっぱり。この北中米カリブ海地区には強豪メキシコに加え、1994年の自国開催から一気に力をつけてきたアメリカの存在があります。また、1990年代にはジャマイカやホンジュラスという国の台頭もあり、その後塵を拝んでいたのでしょう。国民的人気と言われてはいますが、その実力は人気に比例していないようです。北中米カリブ海サッカー連盟が主催するCONCACAFゴールドカップでは優勝と準優勝を繰り返していますが、もしかしたら内弁慶?

人気のスポーツと言われるぐらいですから、当然国内リーグだってあります。一方で、海外のクラブに所属している選手も少なくありません。面白いので、日本代表と比較してみました。

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2014W杯ブラジル大会メンバー23名の内訳
[日本代表]
・国内クラブ所属:11名
・海外クラブ所属:12名

[コスタリカ代表]
・国内クラブ所属:9名
・海外クラブ所属:14名
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非常に興味深い結果になりました。コスタリカの海外組のうち、3名は立地的に遠くはない米MLSのクラブ所属ですが、他はすべてヨーロッパ。ちなみに、前線で体を張っていたオリンピアコス(ギリシャ)所属のFWキャンベルは英アーセナルからのレンタル期間中で、PSV(オランダ)所属の司令塔ルイス、レバンテ(スペイン)所属の不動の守護神ナバスといった主力以外は、スイスのほか、ロシア、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーといった寒い国の中堅クラブの名が並びます。北欧エリアとの強いネットワークがあるのかもしれませんが、決してレベルが高いとは言い難いヨーロッパへの進出は、国内リーグとのレベル差云々というよりは出稼ぎの要素が強いように思えます。

これはずいぶん大きな差です。代表招集となった際、ビジネスクラスの直行便(トランジットがあったとしてもせいぜい一回でしょう)で帰ってくる日本代表と違い、コスタリカの海外組は相当に困難なものと思われます。また、いずれも渡航費はともに協会持ちではあるでしょうが、財政面で日本とコスタリカでは大きな開きがあります。一回の帰国がどれほど大きな負担か。それだけで、コスタリカが置かれている状況は日本以上に厳しいことは想像に難くありません。


■日本以上にチームとしての完成度は高かった
そんな海外組の多いコスタリカですが、チームとしての統一感、意識の共有は日本以上だったと言っていいでしょう。実は今回、日本代表と比較しようと思った最大の理由は、コスタリカの戦い方にありました。タレント力に秀でるFWキャンベルを前線に置き、堅守速攻で強敵に挑むさまは、4年前の南アフリカ大会でサプライズと言われた日本代表の戦い方と似ていたからです。

4年前、ボールポゼッションで優位性を保つサッカーを目指していた岡田武史監督(当時)率いる日本代表は、直前までの親善試合の結果が芳しくなかったことから、大会直前にして急遽戦術変更を執行しました。決してレギュラーとは言い難かった本田圭祐をワントップとし、両脇に大久保嘉人、松井大輔を座らせる疑似3トップ。中盤は阿部勇樹をアンカーに遠藤保仁、長谷部誠が並ぶ3枚とし、フォーメーションは4-1-4-1とも言えるもので、実際は本田圭祐はポスト役を任されたMFですから、フォワードがいないいわゆるゼロトップフォーメーションでした。

決してまったく同じだったとは言いませんが、まず守備ありきの堅守速攻型チームで、本大会を通じてその得点力もさることながら、「チームのために」といううちなる声が聞こえてきそうな前線で潰れ役を買って出たキャンベルの存在が際立っていました。ちなみにコスタリカはW杯直前、エースストライカーのアルバロ・サボリオが怪我で離脱していたのです。キャンベルにかかる期待とプレッシャーは相当大きなものとなっていたでしょう。

ルイスやナバスといったタレント力に秀でた選手はもちろん、各ポジションで役割をまっとうした他の選手の動きも実に献身的。“死のグループ”を前にして諦めることなくチームを鼓舞し、持てる力を最大限に発揮できるチームへと仕上げたホルヘ・ルイス・ピント監督の手腕はお見事のひとこと。

おそらく個々のタレントという点で見れば、日本代表と遜色ないか、もしくは日本が上かもしれません。にもかかわらず、日本よりも厳しいグループを突破できたコスタリカは、あらゆる相手に対してすべて組織力で対抗していました。個々のタレントで勝負したら大敗を喫することを自覚していたからこその戦い方だったのでしょう。

そう、日本代表との大きな差は、自己犠牲の精神、チームに捧げる忠誠心、そして……勇気です。


■新指揮官との交渉の前にやるべきことがある
コスタリカと照らし合わせれば明白ですが、日本には自己犠牲の精神が大きく欠けていました。4年前の実績に自惚れ、メガクラブに所属する選手を抱えることで過信し、ブラジルやアルゼンチン、オランダと比べて個で劣ることを理解しているにもかかわらず組織力を高める努力を怠った。結果がすべてという言い方をすれば、今回のGL敗退は4年前から答えが出ていたということになります。

コンパクトなゾーンを保ち、そのなかでプレスをかけてボールを奪取、そこから素早くボールを動かして敵陣へと攻め入り、FWだけでなくMFからDFにいたるまで全員で相手ゴールを強襲する。

キモとなるのは“ボールの奪い方”ですが、フィジカル面を含め、個々の能力で劣るからには全員でカバーし合いながら畳み掛けねばなりません。ところがこれまでの親善試合はともかく、大事な初戦コートジボワール戦ではFW大迫と本田のみがチェイシングするのみで、ふたりが空振ると途端に大きなゾーンが空いてしまう始末。ピッチコンディションや高温多湿な状況を懸念したという声も聞こえましたが、4年も一緒にやってきていればこういう状況での戦い方ぐらい共有しているはず。大前提である“チームとしての意識共有”がなかったことが大きな敗因ですが、この負け方をして「4年間積み重ねてきたもの」「自分たちのサッカーを」と言われても、僕は頭のうえにクエスチョンマークしか浮かびません。

結果的に、組織として戦うため、チーム力を向上させるための勇気がないチームだったということです。選手もそうですが、監督のザッケローニも同罪、いやそれ以上でしょうか。国を背負っている責任感が希薄だったのでしょうし、そうさせたのもすべては過信から。「驕れる平家は久しからず」とは、日本の歴史が生んだ名言なんですが、“驕ることなく謙虚に戦う”という日本古来の美徳をコスタリカに見せつけられたんじゃ、世話ありません。

オランダと対峙したコスタリカの戦いぶりはすさまじいものでした。完全にゴール前を固めつつも、スキあらばカウンターを見舞う攻めの姿勢も忘れていない。ひとりひとりが課せられた任務を遂行し、運をも味方につけて0-0という最低限のミッションを成し遂げたのです。ここまで熱いものを感じさせてくれるスコアレスドローの試合なんて、そうそうあるものではありません。もし次のアルゼンチンに敗れるようなことがあれば、このコスタリカとの一戦を引き合いに出すオランダの選手がいることでしょう。


■今一度、自分たちの立ち位置を見直そう
「世界を驚かせよう。君たちにはそれができる」

コスタリカを率いたコロンビア人指揮官は、きっと選手たちにこう言ったに違いありません。イタリア、イングランド、ウルグアイという国々を前に言われても鵜呑みにはできないところでしょうが、それを信じさせるだけの信頼をピント監督は選手から勝ち得ていたというわけです。改めて彼のマネジメント能力を分析してみたいと思うほど。

4年前の日本も、同じように“身の丈に合った”戦い方を選び、ベスト16という結果を手にしました。「手応えは掴んだ。俺たちはもっとやれる」という意気込みは素晴らしいものでしたが、なぜか思いもよらぬ方向へと向いていったのです。

将来につながる自分たちのサッカーを貫く……。大事なことですが、どんな戦い方であれ、勝つことで得られるものもあります。それを学んだのが4年前の南アフリカだったのですが、監督が代わり、選手との意識共有があやふやなまま4年という月日を過ごしてしまったため、4年前の経験の上乗せができず、逆に後退するかのような結果を生んでしまった。出てしまった結果に対してごちゃごちゃ言っても仕方ないのですが、今回の件もきちんとした教訓として整理しておかないと、次、さらにその先へと活かしていけません。勝っても負けても、反省することは山ほどあります。強豪国ですら、いつでも勝ち続けているわけではないのだから。

皮肉ついでで言わせてもらうと、推定年俸2億4000万円と言われるザッケローニ監督に対し、ホルヘ・ルイス・ピント監督の年俸は約5000万円だと言います。コストパフォーマンスという点でも大きく水をあけられていますね。2億5000万円からさらに値段を釣り上げようとしているメキシコ人相手に振り回されるよりも、もっとやれることがあるんじゃないですか? 日本サッカー協会の皆さん。これまでどおりじゃ、昔ネルシーニョに言われた“腐ったミカン”のままですよ。

2014年7月3日木曜日

拠りどころとなる原点を持つこと

■オーソドックスなモデルが消えたハーレー
All Aboutのバイクガイドとして、来週掲載のハーレーダビッドソン スポーツスターに関する記事を書いていたときのこと。自分自身もスポーツスターを所有していることもあり、いろいろと思い入れを含めつつまとめていたのですが、改めて触れなければいけないところに差し掛かりました。

現在のハーレーダビッドソンのスポーツスターに登録されているモデルはすべて派生モデルと言われるもので、その原点となるオーソドックスなモデルが消えてしまっているのです。

ハーレーダビッドソンにはファクトリーカスタムモデルという、「こんなスタイル、どうでしょう?」とメーカー提案型カスタムバイクという位置づけのモデルがあります。人気が高いXL1200Xフォーティーエイト、チョッパーライクなXL1200Vセブンティーツー、そのほかXL1200Cカスタム、XL1200CAリミテッドとXL1200Bリミテッドなどなど、ファクトリーカスタムモデルのバーゲンセール状態。XL883Nアイアンがスタンダードモデルと思われているようですが、あれもいわゆるダークカスタムモデル。

元々このスポーツスターファミリーには、XL883というすべての原点となるモデルがいました。2009年を最後にモデルカタログから姿を消しましたが、どんな姿にするのもオーナー次第という限りない可能性を秘めたオーソドックスなモデルの存在は、今振り返ってみて、非常に貴重な存在だったと思います。特に今のようなファクトリーカスタムモデル全盛期から振り返れば。

バイクのカスタムというのは、オーナーのライフスタイルに合ったオンリーワンのバイクを作るということ。ファクトリーカスタムモデルの場合はその逆で、オーナーがバイクに合わせる形になります。なぜならば、すでに個性という名のドレスで着飾っているから。結果的に、ファクトリーカスタムモデルの売り上げの方がXL883を上回っており、採算という面からカタログ落ちすることとなったのでしょう。市場がそう判断した、確かにそのとおり。

オーソドックスなモデルがないと、ファクトリーカスタムモデルからハーレー(バイク)の世界に入った人は、迷ったときにどこに立ち戻っていいのか分からなくなってしまいます。そういう意味で言えば、XL883をカタログ落ちさせたことは非常にもったいないわけです。

これは、今の日本サッカーに関しても同じことが言えると思います。


■最後に頼れるスタイルを持つ重要性

「自分たちのサッカーを」W杯ブラジル大会で散った日本代表の面々は、口々にそう言っていました。この台詞は何年か前から耳にするようになっていましたが、このブラジル大会に至るまで、「どれが日本のサッカー?」とずっと思っていました。

これまでに日本の強さが発揮されたスタイルは、ハーフウェイライン近辺でボールを奪ってからの素早いショートカウンターだったと思います。攻守ともに選手同士が近い距離を保ち、ボールを奪うやいなや少ない手数でも最短距離で相手ゴールまでボールを運び、強襲する。

ところが、選手間で意識の統一がなされていないのか、同じようなチャンスを手に入れても流れを滞らせてしまう場面が多々見受けられたのも事実。ほぼ固定メンバーで4年間やってきたチームがなぜ?と今さらながらに思うわけですが、結果的にその不安がブラジルでの本番で的中することとなってしまいました。

拠りどころとなれる原点がなかったのでしょう。

イタリアは追いつめられると貝のように閉じこもるカテナチオを発動させますし、ブラジルやスペイン、ポルトガルなどは高いスキルを活かしたパスワークでボールキープしリズムを作ります。アルゼンチンは狡猾なプレーで試合の流れを自分たちのもとへと引き寄せる術を心得ていますし、最近は鳴りを潜めていますが、イングランドにはキック&ラッシュという伝統戦法がDNAに染み付いています。

日本サッカーの原点は?


■この代償を支払うときは、必ず来る
日本人の特性をあげると、組織に準じたコレクティブなプレー、素早く正確なパスワーク、アジリティ(敏捷性)、誠実なところといった感じでしょうか。逆にサッカーに対して不向きなのは、身体能力が高くはなく、ダーティさに欠け、プレーそのものが単調なところでしょうか。監督、選手ともに90分間を通じて試合をマネジメントできる人材が少ないように思えます。ザッケローニ? マネジメントのできない外国人は例外ですね。

もちろん、選手によって特性はあります。ボールキープに長けた者、正確無比なパスを繰り出せる者、鋭い読みでディフェンスを統率できる者……。ただ、それらはあくまで選手個人の特性であって、重要なのは“どういうチームにすべきなのか”です。その指針によっては、どれほど能力が高かろうともチームに合わなければ不要となります。

日本代表というチームは、日本国籍を有する者なら誰でも招集できる国内最強のチームであるべき。それだけの特権を持っているわけですから、当然「日本のサッカーとは、こうだ」という明確なスタイル(指針)のもとに、選手構成がなされなければなりません。そう、日本中の模範となるべきチームなのですから。

指揮官の迷采配とマネジメント能力の低さという足枷を省いて見ても、「自分たちのサッカーを」と口にするほどの明確なスタイルがなかったことが、世界の檜舞台で露にされてしまいました。これは、これ以上ないほど貴重な教訓ですし、次の世代に向けて最大限に活かさねばなりません。

しかし、ここ最近の報道を見ている限り、今回の教訓を活かそうという姿勢が日本サッカー協会からまったく感じることができません。自分たちのビジネスのために日本代表というブランドを利用しているとしか思えないのです。

他にない、唯一無二のスタイルを構築すること。これは一朝一夕ではできませんし、だからこそ時間をかけた地道な強化が必要なのです。ここを疎かにしているうちは、どれだけ世界の強豪国に挑もうとも跳ね返されるだけ。しっかりとした石垣のない天守閣など脆いものです。

世界に名だたるサッカー強豪国でもないのに、ことビジネスという点に関して言えば世界屈指という歪な国、日本。うわべの華やかさだけの金儲けしか考えていない日本サッカー協会は、いずれこのツケを支払わされるときが来るでしょう。

土壇場で踏ん張るために必要な土台はいかなるものか。世界が日本に突きつけた大きな課題を無視しては、W杯で上位に食い込むことはまだまだ難しいでしょう。