2014年7月21日月曜日

望まれない2020年東京オリンピック 〜お上と国民の意識の相違〜

巨額の利益を生み出すことを目的に
貧困層を遠くへ追いやる国際ビジネス

ラケル・ロニックさん
「開催が決まったとき、ブラジル国民は大いに喜びました。特にサッカーは私たちブラジル人にとってはアイデンティティーのようなもの。『世界にブラジルの盛り上がりを見せられる!』、そんな想いが国中を覆い尽くしていました」

2014年ブラジルW杯、そして2016年リオ五輪の開催が決まったときのブラジル国民の反応は?という質問に、サンパウロ大学の建築学および都市計画の学部の教授であり、国連の「適切な居住への権利の人権委員会」特別報告者をつとめるブラジル人のラケル・ロニックさんはそう答え、ひといきついてからこう続けました。

「ところが、ブラジルW杯開催が近づくにつれ、“国際スポーツイベントのための都市開発事業”という名目のもと、ファベーラ(スラム地区)に住む人々が都心部から追い出されていったのです。空港からスタジアムまでのインフラ整備や最新のテクノロジーを用いた建設ラッシュなどが相次いだのですが、それも都心部に住む富裕層のため、また海外からやってくる外国人観光客のための投資でしかありません」

ブラジルW杯開催前、各地で多くのデモや暴動が起こっていたのを覚えていますでしょうか。「W杯にかけるお金があるなら、医療や教育に使え」という主旨のデモを、ニュースなどで目にしたことがあるでしょう。「あのサッカー王国ブラジルで、まさかそんなことが」という驚きとともに知った報道も、W杯に突入するや否や沈静化した感もあり、やや記憶の片隅に追いやられていたかと思います。

7月19日(土)、東京・台東区の浅草聖ヨハネ協会で開催されたシンポジウム「ブラジルで何が起こっているのか サッカーW杯への抗議運動の背景にあるもの」(主催:反五輪の会)にお邪魔し、ゲストとして招かれたラケル・ロニックさんの話を伺ってきました。

2020年、東京でオリンピックが開催されることを皆さんご存知のことでしょう。スペイン・マドリード、トルコ・イスタンブールといったライバルに競り勝ち、手にした念願の開催権。「おもてなし」の流行語を生んだこの出来事は号外が打たれ、東京のみならず日本という国をあげての一大イベントとなろうとしています。

同じように、開催が決定した際の盛り上がりようがすさまじいところは、日本もブラジルも一緒だと思います。では、開催決定から開催するまで、そして開催後はどうなっていくのか。ごく一部の人を除いて、東京都民、そして日本国民もまだそこまでイメージできてはいないでしょう。


政府主導から民間企業主導へ
富裕層のためのイベントへと変わった

W杯開催前のブラジルでの暴動は、虐げられた貧困層による反発でした。国際的スポーツイベントは、その開催地がどこかで巨額のお金が左右される巨大ビジネスです。開催に向け、会場の新設やインフラ整備、都市再開発など“開催後の回収”という名目でどんどんお金が投じられ、地価が高い都心部の土地が切り開かれていきます。そして、そのターゲットとなるのが、古くからその地に住まう貧困層です。

実際、ブラジルでは割りの合わない立退料に、30キロ以上も離れた場所への引っ越しを強いられるなど、とても立ち退いてもらう人に対するリスペクトを感じられない待遇ばかりなのだと言います。しかも開催日は決定していますから、立ち退きを渋っていると次第に国は強硬手段に出てきて、いわゆる行政代執行という強制力をもって追い出していくと言います。

巨額の利益を生み出す国際的スポーツイベント。しかしそこで得たお金が、国民や開催地へと還元されていないのが実情だとロニックさんは言います。

「五輪が開催された北京やアテネ、W杯が開催された南アフリカの各都市など、すべて同じような状態です。“開催のために”と苦渋の決断を受け入れたにもかかわらず、大きな利益がどこか知らないところへ行ってしまっている。1992年バルセロナ五輪以降に見られる傾向です」

ロニックさんは続けます。

「W杯や五輪といった国際的メガスポーツイベントは、1970年代までは冷戦時代ということもあり、国威発揚を目的に国同士で開催権を奪い合っていました。しかし1980年代より、民間企業がスポンサーについての巨大ビジネスへと変貌をはじめ、現在の姿へと肥大化したのです」

今回のブラジルW杯やリオ五輪について、開催決定後に当初予定していた経費だけでは足りないことが判明、「さらにお金が必要だから」と、税金や光熱費を強制してきたのだと言います。いくら自国の誇りをかけたメガイベントのためとはいえ、ここまでされれば国民だって堪忍袋の緒が切れようと言うもの。話を聞けば聞くほど、ブラジルでのあの暴動に納得せざるを得ませんでした。


開催決定という御旗を掲げた脅迫?
弱者を排除した醜きイベントでは

お気づきの方もいるでしょう、東京五輪についてもすでにブラジルに似た兆しは出てきています。当初予定されていた新しい国立競技場のリニューアル後の姿は変更されることとなり、IOCへのプレゼンテーションのとき以上の予算編成となってきています。確かに、実際に開催準備を進めていくうえで想定外の事態は起こりえるものとは思いますが、「だって開催が決定したんだから、仕方ないじゃん」と、税金や光熱費をアップするのはもはや脅迫です。まだそうした方針が打ち出されたわけではありませんが、仮にブラジルのような施策を日本政府が採った場合、東京都民および日本国民はなんらかの意思表示をする必要があるでしょう。

また、これはFIFA(国際サッカー連盟)が設定しているW杯用ルールには、「特別建設法」や「W杯開催期間内における超法規的措置」などが設定されているそうです。いずれもFIFAと開催国のあいだでかわされる契約に記述されているもので、開催国の法的権限を越えた特別ルールとされるものだとか。例えば建築物を建てる際には日照権などの周辺住民が有する当然の権利を考慮せねばなりません。しかしこの特別ルールの場合、そうした当然の権利は一旦無視して滞りない作業を進めることが優先されるのだと言います。超法規的措置も同様で、スタジアム周辺での犯罪行為については、通常の手続きではない手順で裁定が下されるのだとか。

事実、国立競技場のリニューアル案を手がけたデザイナーのザハ・ハディドさんの最初の案では、残される予定だった都営霞ヶ丘アパートが後のリニューアル案により、撤去対象とされているそうです。

国として立ち退きを申し立てるわけですから、当然現状以上の住環境を提案することが求められます。長年培ってきた土地勘やコミュニティ、職場へのアクセス、その他諸々、立ち退かされる住民への負担は相当なもの。その理由が「オリンピックのためだから」と言われて、ハイそうですかと納得する人は少数派でしょう。極端な話、「わずか20日間足らずのイベントのために、どこか遠くへ行ってくれ」と言われているわけです。相当のお金でも積まれない限りは応じられませんよね。一方で、開催は刻一刻と迫ってきています。いずれ行政代執行という強制立退を強いられることは目に見えています。


問うべきは国民の意思
そこに想いはあるのか

ディテールの話をすればキリがないのですが、こと東京五輪に関して言わせてもらうと、論点はひとつ。

「2020年東京五輪の開催は、東京都民が望んだものなのか」

結論から言いますが、W杯も五輪も、すべて政府や行政が「やりたい」って言って始めたこと。僕は彼らより「東京でオリンピックを開催しようと思うんですが、皆さんどう思いますか?」と聞かれた覚えは一度もありません。

誤解なきように言うと、僕はサッカーが大好きですし、リニューアルした国立競技場でサッカー五輪代表の試合をナマ観戦してみたいとも思います。W杯だって、いつの日か自国の単独開催で存分に楽しんでみたいとも思っています。

しかし、国民が望んでもいないことを「やることが決まったんだから」というのは筋違いも甚だしいと思うのです。かき集めた税金で勝手に予算組みして、プレゼンテーションに投資しまくってなんとか開催権をもぎ取った(東京も大阪も一度ずつ招致に失敗し、大赤字こいていますが)ってだけの話です。そのうえ、さらに都民や国民に負担を強いてまでやろうというスポーツイベントに、一体何の意味があるのか。

そして、開催することによって得た利益は、きちんと国民に還元されるのか、ここも不明瞭なままです。大手広告代理店や大手ゼネコンにどんどんお金が注ぎ込まれ、貧困層を排除しての都市開発が進んでいくのは明白。結局は利権絡みの企業や関係者が美味しい思いをするだけなのでしょう。

奇しくもブラジルW杯で垣間見えたことですが、日本にはまだ“国全体でスポーツ競技を楽しむ”という文化がありません。W杯や五輪といった伝統的な巨大スポーツイベントは、経済的先進国というだけで手がけては後で不幸なことになります。それは開催した国の人々もそうですが、訪れた人々にとっても、です。

「日本のスポーツ文化発展のために」という大義名分を掲げた金儲けしか考えていないのであれば、招致そのものの疑問を抱かざるを得ません。政府主導である点もそうですが、日本という国がそこまでピュアな想いで五輪を開催したいと思っているのでしょうか。

「予算がかさんだ」、「お金が足りない」、「もっと最新テクノロジーを投入した施設を」……。

そんな問題が起こったときに、どこに立ち戻るのでしょう? それ、オリンピックに必要なもの? 将来の日本のスポーツ文化に必要なもの?

よりどころとなる志がどこなのか、現時点でははっきりと見えません。そして、そのよりどころがないまま時間が経過していくと、ブラジルと同じような事態に陥る危険性もあると思うのです。


今一度国民と話し合うべき
日本はなぜ五輪を開催するのか、と

先頃閉幕したブラジルW杯。思い返せば、開催前の暴動は想像していたほどの事態にはおよばず、残念ながら開催国は木っ端微塵に砕け散っていましたが、概ね成功と言える終焉を迎えたのではないでしょうか。

「やっぱりブラジル人にとって、サッカーは心のよりどころなんです。だから、どれだけ政府の施策が許せなくても、いざ開幕すれば訪問客を手厚くもてなしてあげたいと思うもの。W杯開催期間中は、国民が路上でバーベキューを催して外国人を歓迎していた場面を見ました。ええ、ブラジル代表のことについては聞かないでください、1-7というスコアは辛すぎました……」

苦笑いしながら、ロニックさんは続けます。

「2年後のリオ五輪に向け、おそらくブラジルでは再びデモが起こるでしょう。そして今年10月の大統領選挙で現職のジルマ・ルセフ大統領が落選したりすれば、その方策は大きく転換してしまうかもしれません。ただ、誰がリーダーになったとしても、人々の権利を守り続けなければならないことに変わりはないのです」

守られなければならない人々が攻撃されてしまう自体が起こりえる、ロニックさんはそう警告を残していきました。特に日本は高齢者の多い国でもあるので、はたして政府がそこまで配慮してのコントロールができるのか、甚だ疑問です。こうしたさまざまな問題について、東京都民だけでなく、日本国民全体で考え、そして結論を出さねばならないことなのでしょう。

私たちは、なぜオリンピックを開催したいのか。

オリンピック開催の向こうに、どんな価値を見いだそうとしているのか。

すべてとは言いませんが、大多数の国民が納得できる回答が出ない限り、オリンピックもW杯も開催すべきではないのかもしれません。汚職が増えたIOCやFIFAの連中に関係なく、自分たちの声で開催の是非を判断せねばならないのでしょう。

日本とブラジルとでは、文化的背景が異なります。だから杓子定規ではかったように「こうなる!」などとは言い切れないと思います。ただ、日本人として自国のカルチャーを鑑み、そして政府や行政の動きを見れば、日本人だからこそ気づく疑問があるのではないでしょうか。

僕自身は、東京五輪について反対しているわけではありません。ただ、「賛成!」と声高に言うだけの根拠が見つからないのです。

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