2014年8月29日金曜日

団塊クレーマーに見る今日のバイク事情

新型バイクを購入した熟年ライダーの考察ブログが今、大きな議論を呼んでいるようです。

>> MT-07白号への苦情申し立て

関西在住で、ご夫婦でバイクライフを楽しまれている熟年ライダーで、このほどヤマハの最新モデル MT-07を奥様が購入。いよいよ新たなバイクライフの幕開けか……という矢先、エンジンの異常な加熱性に疑問を持ち、「これはもはやリコールのレベル」と、ご自身のブログで私見を述べられたのです。

これに反応したのがバイクに乗るネットユーザー。このブログ主さんのブログにはコメント記入欄がないのですが、これまでの記事ではほとんど押されていないFacebookの「いいね!」数がこの記事に限って2,363も押されていること(2014年8月28日現在)、また本記事のタイトルでGoogle検索をかけるとTwitter等であらゆる方面へ拡散されていることから見ても、ご本人が思っていた以上のレスポンスであることは想像に難くありません。

・ 奥様が購入されたMT-07(初期ロットモデル)をご自身が試乗
・ しばらく乗っていると、両脚が異常に熱くなってきた
・ 服装は運動靴&夏用スラックス
・ 長期運転などすれば低温やけどを起こしてしまう欠陥商品だ
・ 返品も辞さない心構えだったが、奥様からメーカーへクレームをつけて終了
・ 腹の虫がおさまらないので、自身のブログで「MT-07」検索でかかるネガティブキャンペーンを展開

概要はこんなところでしょうか。

“エンジンの熱が異常”というのは個人差と言えなくもありません。ヘビーユーザーからすれば「大型バイクに乗ってりゃ、そんなの当たり前やんけ!」というところでしょうし、モアパワーを求めた大排気量モデルともなれば、そうした弊害は十分起こりえる事態です。冬場であっても、クルマのエンジンもボンネット越しに分かるほどカンカンに熱くなりますよね。それよりは小さいとはいえ、バイクの場合はライダーの股下にあるわけです。「エンジンが熱い!」と言われれば、「そりゃそうでしょうよ(笑)」としか返せません。

一方で、もしかしたらご本人がおっしゃられているとおりMT-07のエンジン熱が異常という可能性を捨てるわけにもいきません。水冷機能搭載のフューエルインジェクションモデルと、放熱性・冷却性を考慮した仕様ながら、熱くなりがちなツイン(直列2気筒)エンジンですから、オーナーにしか分からない異常と真摯に受け止めるべきであるのかも。

議論のひとつが、「服装」でした。

運動靴&夏用スラックスという記述に対し、多くの方が「そりゃ、そんな格好でバイクに乗ってりゃ熱いに決まっている」という反応です。安全性という点も含め、そこまで体を外部にさらけ出していれば熱の伝わり方だってかなり直接的なものになります。むき出しであることは、メリット&デメリットの両方をすべてダイレクトに感じ取ることなのです。

バイクに乗る際のファッションに定義も規制もありません。端的に言えば自己責任。当然ながらクルマ以上に危険性の高い乗り物でもあるので、ライダー自身がそうした現実に対してどう向き合っているか、がファッションにも表れてくるのだと思います。

かくいう僕は、ハーレーダビッドソン XL1200R(2008)というモデルに乗っており、用途によって使い分けてはいるものの、普段はジェットヘルメットにデニム&スニーカー、なるべくアウターは一枚羽織るようにしているものの、あまりに暑ければTシャツ一枚ということも。

ハーレーダビッドソンのエンジン(Vツイン)は、このMT-07なんて比べものにならないほど熱くなります。水冷機能を備えれば同モデルぐらいには抑えられるのかもしれませんが、それではハーレーダビッドソンのVツインエンジンが奏でる独特の鼓動感は損なわれてしまいます。近年水冷モデルを輩出するハーレーですが、大多数が放熱性に劣る空冷エンジンモデルである理由は、この空冷Vツインエンジンの鼓動感に対する支持が圧倒的に多いからなのです。

ハーレーに乗るならば、カッコよく乗らなければ意味がない。たとえそのスタイルに安全性の欠片も感じられず、乗っている本人が辛い想いをすることになろうとも。“カッコよさ”の定義は人それぞれですが、デメリットを受け入れる度量がないと、バイク趣味の世界を本当に楽しむことはできない、と思っています。

件のブログ主さんは、なぜ「運動靴&夏用スラックス」という出で立ちでバイクに乗ったのでしょう。理由はご本人に伺うほかありませんが、いかなる理由であれ、デメリットが高まるスタイルである以上、

「自分はこのファッションが気に入っている。だから誰になんと言われようと、どれほどデメリットにさらされようと、私はこのスタイルを貫きたい」

ぐらいの覚悟をもってバイクに乗られる方がいいんじゃないでしょうか。

当該バイクがご自身の求めるバイクライフに合わなければ、買い替えればいいだけのこと。世の中には、MT-07以上に快適に乗り回せるバイクが多数存在します。要するに“自分に合ったバイクを探す”のか、“そのバイクが気に入ったから、自分を合わせていく”のか。ブログ主さんは「自分(たち)のバイクライフに合わなかったからクレーム」という、寛容な心をもっていなければ付き合えないモーターサイクルの世界に不向きな方なのでしょう。そのうえ「メーカーにクレームをつける」、「ネガティブキャンペーンを展開してやる」というのは、少々お門違いなように思えます。

近年、大衆に受け入れられるビジネス展開が強まっているせいか、モーターサイクルという特異な趣味の世界のメーカーでもエンドユーザーのクレームを聞きすぎるきらいが見受けられ、「今のバイクは面白くない」というヘビーユーザーの声も少なくありません。そして、そうした傾向に増長して必要以上の要求をするクレーマーの存在も年々増えているように思えます。これはモーターサイクルの世界に限った話ではなく、モンスターペアレンツなどと呼ばれる社会現象も含まれることでしょう。

いまやインターネット上では、個人がメディアを持てる環境がどんどん進化しており、何気ない発言が自分の手の届かないところまで拡散されてしまうのも珍しくありません。おそらく件のブログ主さんは想像を絶する反響(特にネガティブなもの)にかなり動揺されているのではないかと思います。

相当の憤りからつづられたブログ記事だと思いますが、改めてバイクとの向き合い方、そして今回の怒りの源に対してご自身でじっくりと検証されることをおすすめしたいです。
 

2014年8月12日火曜日

愚者の時計

■ようこそ、日本へ
8月11日、サッカー日本代表チームの新監督を務めることになったメキシコ人のハビエル・アギーレ氏が来日を果たしました。その足で日本サッカー協会に赴き、同日に契約締結、そして記者会見の運びとなりました。

ちょうどYahoo!ニュースで会見速報記事がアップされていましたが、どれも会見の一部を切り取ったものばかりだったので、日本サッカー協会ウェブサイトに行き、一時間七分という長丁場な会見動画を拝見しました。

会見を通じて見えたのは、アギーレ氏を選んだ日本サッカー協会の選考基準が相変わらず曖昧なことでしょうか。

歴戦の雄アギーレ氏のキャリアは文句の付けようがないもの。身の丈にあっていない“名将”という肩書きをつけられる方も多々いますが、アギーレ氏はまぎれもなく名将のひとりだと思います。ただ、これが日本サッカーの未来を安泰なものにするかと言われれば、そうではありません。世界に名を馳せる人物であっても、相性が悪くて実力の半分も出せないことも。

同会見でメキシコ人記者の方が「世界的に見ても、日本はまだW杯に5回出場しただけの“若い国”だ。あなたにとって大きなチャレンジなのでは?」と質問していましたが、おっしゃるとおりで、経験豊富な国々と日本を同列で語ることはできません。アギーレ氏と日本代表チームがどんな化学反応を起こすか、それはこれから見ていかなければならないことです。

そういう意味では、この記者会見はあくまでお披露目。「ベースとなるシステムは4-3-3だ」とか「若くて才能がある選手を起用したい」といった言葉はこの場限りのもので、「実際にやってみたらずいぶん違う姿になった」ということなんてよくある話。その回答ひとつひとつに一喜一憂せず、多角的に彼の仕事ぶりを見ていけばいいだけのことです。

一方で、違う収穫がありました。日本サッカー協会がアギーレ氏を選んだ大きな理由です、


■恋い焦がれていたのは分かるけど……
「実は4年前の南アフリカW杯後にも、原さん(日本サッカー協会 専務理事兼強化委員長)からオファーをいただいていました。しかし、そのときは家庭の事情(長男がスペインの大学に入学したばかりだった)でお受けすることができなかった。それから4年、日本サッカー協会は私の仕事ぶりを常に評価してくれ、再びオファーをくださった。スペインのクラブや他の代表チームからのオファーもありましたが、2018年W杯ロシア大会に向けた日本サッカー協会の強化プロジェクトに魅力を感じ、お受けすることにしたのです」

要約すると、こんなところです。つまり、日本サッカー協会(というか原さん)にとって、アギーレ氏は4年越しの恋人というわけですね。

がっかりしました。

4年前、日本は2010年W杯南アフリカ大会でベスト16に進出するという快挙を成し遂げました。ところが大会後、監督の岡田武史さんは契約満了とともに退任。当然後任人事をなんとかしなければならないわけですが、リストアップする人物にことごとく断られ(確かビエルサ氏などの名前もあったと思います。アギーレ氏もそのうちのひとりだったのでしょう)、大会後の代表戦2試合に関しては、原強化委員長が代理監督を務めるというお粗末な流れに。

「なんで代表監督がまだ決まっていないんだ」、そんな世間の批判が高まるなか、突如現れたのがアルベルト・ザッケローニ氏でした。とある筋から聞いた話ですが、アプローチしてきたのはザッケローニ側だったそうです。すでにヨーロッパでもシーズンがスタートし、名だたる指揮官はさまざまなクラブが連れていっていたこの時期、もはや余り物から選ばざるを得ない状況にあった日本サッカー協会に、ザッケローニの代理人が声をかけてきたとか。一も二もなく飛びついた日本サッカー協会、かくして「サッカー日本代表監督 アルベルト・ザッケローニ」が誕生した裏側です。

つまり、本命にことごとく振られて打ち拉がれていたところに「あたしでよければ」と言い寄られ、そのまま付き合っちゃった的な感じ。で、4年経って再び「やはりあなたが忘れられない」とアギーレ氏に言い寄ったというところでしょうか。

そりゃがっかりもしますよ。


■選考基準が4年前から止まっている

アギーレという人物そのものに対する疑念はまったくありません。目標は常に4年毎のW杯で好成績を残すことで、過去最高のベスト16の壁を破ることはもちろん、ひとつでも上の領域を目指すための強化を図ること。日本サッカー協会も同じように考えているでしょう。

その道程で、必ず世界屈指の強豪国との対戦は避けられません。アギーレ氏は「世界のトップは、だいたい5ヶ国ぐらい。世界的なタイトルを獲った経験がある国がそれだ」とおっしゃっていましたが、日本の立場から見ればそんな数では済まないほどあります。

攻撃サッカー、大いに結構。ただ、相手をリスペクトすることを忘れてはいけません。ドイツ相手に「俺たちはお前たちを打ち負かす!」とのたまったところで、井の中の蛙と言われ、ボコボコにされるのがオチ。W杯では、そうした一部の強豪国を除いて“まず守備ありき”で戦うのが常道。そういう意味で、「まずは全員で守る」ことを第一義に挙げ、なおかつこれまでのキャリアで(批判を受けつつも)その戦い方を実践してきたアギーレ氏は確かに適任だと思います。

4年前であれば。

南アフリカ後なら、アギーレ氏は日本代表チームにピタっとハマったことでしょう。玉砕覚悟で攻撃サッカーを標榜する選手を諭し、地に足をつけたプレーを見せてくれたんじゃないだろうか、と。もちろん憶測にしか過ぎませんし、“たら・れば”で言えば、ザッケローニ氏だって似たようなことを言っていたとも。

4年前と今とでは、状況が違います。ザッケローニ体制で挑んだブラジル大会では惨敗を喫し、代表チームのみならず、日本サッカーそのものの立て直しを図ろうとしている今、「4年前から見初めていたんで大丈夫」というのは、<ブラジルでの敗因>と<4年後を見据えた強化策>という議題に対する回答にはなっていません。

結局、4年前から代表監督の選考基準が進歩していないということです。アギーレ氏にケチをつける気はさらさらないのですが、選んだ側がこんなウブな大人たちでは、4年後のロシアでも大きな成果は期待できないんじゃないでしょうか。

そのロシアに、こんな諺があります。

「愚者の時計は、いつまでも止まったままだ」


■アギーレとサッカー協会はいつか衝突する
先頃、日本サッカー協会よりブラジル大会レポートが発表されましたが、最大の要因は、指揮能力の低さをひけらかしたザッケローニ氏であり、その彼を選んだ日本サッカー協会だと思っています。一方で、サッカー協会の人材難も聞き及ぶところなので、大仁会長や原専務理事が辞任すれば何か解決するのか、と言われれば答えはノーです。

論点は、「アギーレで大丈夫なのか」、「ザッケローニからの継承じゃないじゃないか」ではありません。4年前から今回の新監督人事に至るまでの流れがどれだけ歪であるか、それを日本サッカー協会の面々が真摯に受け止めているかどうか、だと思います。

記者会見中、大仁会長と原専務理事は終止うつむき加減で、メディアからの質問にもナイーブな反応を示すなど、世間の批判がいやというほど耳に届いていることを伺わせてくれました。こういう立場の人たちですし、今回の惨敗を見れば批判は致し方ありません。

ただ、その批判の真意を汲み取り、誠意ある対応をしているかどうかが大事なのだと思います。そういう点で見ても、結局“アギーレ氏を押し通した”という今回の人事からも、日本サッカー協会という組織は「お役所」と揶揄されても仕方のない体質なのだな、と感じ入りました。

個人的には、アギーレ氏には期待したいところですし、ザッケローニ氏よりは盤石なチームづくりをしてくれるんじゃないかとも思っています。もし彼が、「日本代表チームをより強くしたい」というあくなき情熱を持って取り組んでくれるならこれほど嬉しいことはありませんが、そうした情熱がある方だとすると、ぬるま湯体質の日本サッカー協会とはいつかどこかで衝突しそうな気がしないでもありません。かつてのネルシーニョ氏やオシム氏のように。
 

2014年8月1日金曜日

外れくじを引いたアギーレ新監督、そして変わらない日本サッカー協会

■ドイツが示した日本のあるべき姿
ブラジルW杯が終わって、まもなく一ヶ月が経とうとしています。寝不足に苛まれつつもほとばしる情熱に包まれた一ヶ月間、フットボールフリークの方々は悦楽のときを過ごされたかと思います。もちろん、日頃フットボールに親しみのない方でも楽しめる、文字通りエンターテインメントにあふれた素晴らしい大会でした。

「W杯の優勝国のスタイルが、それからの4年のトレンドになる」

こんな言葉があります。2010年南アフリカW杯を制したスペイン代表の軸は、ベースとなったF.C.バルセロナの圧倒的なボールポゼッション能力。以降、世界のフットボールシーンにおける話題には常に「ボールポゼッション」という言葉が含まれるほどに。

そして今大会、優勝トロフィーを手にしたのはドイツでした。決勝戦で対峙した2チームのコントラストは実に分かりやすく、“スペシャルな選手はいないけど組織力および機能美に秀でたドイツ”と“メッシという希有なスーパースターの力を最大限に引き出すアルゼンチン”による試合は、ファンタスティックでW杯決勝にふさわしいレベルだったと思います。

結果的にドイツが世界を制しましたが、アルゼンチンのような一撃で何かをひっくり返してしまいそうなワクワク感を持つサッカーも魅力的でした。

ただ、日本代表という観点で向き不向きを考えるとしたら、間違いなくドイツ・スタイルでしょう。メッシやクリスティアーノ・ロナウド、ハメス・ロドリゲス、アリエン・ロッベンを作るのは困難ですが、ドイツ代表のようなチームを作ることは不可能ではありません。

もちろんドイツ人と比べるとフィジカル面で大きな差が出てしまいますが、一方で日本人は俊敏性といった他にないスピードを持ち合わせています。インテリジェンスに富み、献身的に戦える選手で組み立てられたチームなら、11人がまるでひとりの人間であるかのような連動性を持つことは可能ですし、それが日本代表チームの目指すべきスタイルだと思います。民族の違いはあれど、ドイツ代表が指し示したチームのあり方は日本にとって他人事ではないはず。


■代表チームは協会の私物ではありません
その日本代表ですが、先頃新しい代表監督にメキシコ人のハビエル・アギーレ氏が就任したとの発表がありました。噂レベルのニュースは以前から出回っていましたが、ようやく日本サッカー協会との契約が締結されたことで、お披露目となったよう。そして同時に、ブラジルW杯における日本代表の敗因の分析結果も。

相変わらずの体質ですね、日本サッカー協会。

華やかな話題に混ぜることで、目を背けてはならないはずの部分をぼかそうとする。そのレポート内容も実に馬鹿馬鹿しいレベルで、2006年ドイツ大会時の川淵キャプテン(当時)による「オシム発言」よろしく、嫌なことをうやむやにしたいという体質が今なお健在であることを知りました。

仕方ないのでしょう。ここでまっとうな感覚をもって敗因分析をすれば、当然「じゃあそれを解消するためには?」という話になります。そうなると、派手さとは縁遠い地道な強化方針を採らざるを得なくなり、彼らにとって最大のキャッシュポイントである日本代表チームからは華やかさが失われ、これまでのような巨額の収益が見込めなくなります。

そうなると、スポンサーだって手を引いていくことでしょう。ミュージアムなんてものを備えた自社ビルを持つ日本サッカー協会も、その図体を維持できなくなり、縮小させざるを得なくなるはず。こうなってくるとバッドスパイラルに陥っていくのみで、統制がとれなくなればますます組織はその規模を小さくしていく……。川淵さんほどあくどいやり方ができない原さんにわずかな良心の呵責が見受けられますが、だからといって彼の身勝手なやり方に日本代表の未来を預けるのは間違っていると思います。


■外れくじを引いたアギーレは……
大事なのは、今の日本代表が軸としているところは何なのか、です。ブラジルでの惨敗は、フィジカルコンディション云々よりも、チーム全体のメンタル面が幼すぎたこと。選手個々の能力が高くても、それらを支えるメンタルが脆ければカンタンに瓦解するという好例のような状態でした(なぜ2006年ドイツ大会の二の舞を踏んだのかは理解不能ですが)。

“玉砕しても攻撃的スタイルは貫く”のか、“負けないサッカーを軸にしてより多くの経験を積む”のか。そのときどきの監督や選ばれた選手の意見でコロコロ変わっては、一貫性のあるチームづくりなど夢のまた夢。理想とすべきは、年代別チームであっても同じスタイルを指導するF.C.バルセロナのような育成および強化方針だと思いますが、プレースタイルはまた別。日本人には、日本人にあったサッカーというものが存在します。

アギーレがそういうサッカーを引き出せるのかと言われれば、現時点では“大いに不安”と言わざるを得ません。なぜならば、彼は今まで日本とは縁もゆかりもないですし、きっとJリーガーの顔ぶれだって知らないはず。さらに、代表メンバーに日本人スタッフが入っていないことも疑問。このまま2018年ロシア大会に飛び込めば、今回のブラジルでの惨劇を繰り返すだけでしょう。

まず協会が着手すべきは、上層部の総辞職だと思います。原さんにしても、そして新たに協会をサポートするという名目で招き入れられた宮本恒靖さんにしても、新陳代謝を促せない年寄りが巣食う状態ではこれまでどおり板挟みになるだけで、大きな決断を下すことも手を入れることもできず、不満を募らせて協会を去るのがオチです。

少なくとも、今のサッカー協会に「変わらねば」という強い危機感は見えませんし、ゆえに代表チームが飛躍する姿もまったく想像できません。コンディションの整っていない海外組を呼び寄せた興行試合を見せられても、チケット代の無駄です。アイドルのコンサートを見に行っているわけじゃないのですから。

代表戦のみならず、Jリーグもますますつまらなくなるでしょう。地道に文化としての礎を築こうとしている人たちに報いようという気概すらない組織の運営するチームおよびリーグに、お金を支払う価値などありません。おそらくアギーレはビジネスと割り切って契約したのでしょう。プロとして当然のことではありますが、就任してまもなく、外れくじを引いたことを後悔することになると思います。

2014年7月21日月曜日

望まれない2020年東京オリンピック 〜お上と国民の意識の相違〜

巨額の利益を生み出すことを目的に
貧困層を遠くへ追いやる国際ビジネス

ラケル・ロニックさん
「開催が決まったとき、ブラジル国民は大いに喜びました。特にサッカーは私たちブラジル人にとってはアイデンティティーのようなもの。『世界にブラジルの盛り上がりを見せられる!』、そんな想いが国中を覆い尽くしていました」

2014年ブラジルW杯、そして2016年リオ五輪の開催が決まったときのブラジル国民の反応は?という質問に、サンパウロ大学の建築学および都市計画の学部の教授であり、国連の「適切な居住への権利の人権委員会」特別報告者をつとめるブラジル人のラケル・ロニックさんはそう答え、ひといきついてからこう続けました。

「ところが、ブラジルW杯開催が近づくにつれ、“国際スポーツイベントのための都市開発事業”という名目のもと、ファベーラ(スラム地区)に住む人々が都心部から追い出されていったのです。空港からスタジアムまでのインフラ整備や最新のテクノロジーを用いた建設ラッシュなどが相次いだのですが、それも都心部に住む富裕層のため、また海外からやってくる外国人観光客のための投資でしかありません」

ブラジルW杯開催前、各地で多くのデモや暴動が起こっていたのを覚えていますでしょうか。「W杯にかけるお金があるなら、医療や教育に使え」という主旨のデモを、ニュースなどで目にしたことがあるでしょう。「あのサッカー王国ブラジルで、まさかそんなことが」という驚きとともに知った報道も、W杯に突入するや否や沈静化した感もあり、やや記憶の片隅に追いやられていたかと思います。

7月19日(土)、東京・台東区の浅草聖ヨハネ協会で開催されたシンポジウム「ブラジルで何が起こっているのか サッカーW杯への抗議運動の背景にあるもの」(主催:反五輪の会)にお邪魔し、ゲストとして招かれたラケル・ロニックさんの話を伺ってきました。

2020年、東京でオリンピックが開催されることを皆さんご存知のことでしょう。スペイン・マドリード、トルコ・イスタンブールといったライバルに競り勝ち、手にした念願の開催権。「おもてなし」の流行語を生んだこの出来事は号外が打たれ、東京のみならず日本という国をあげての一大イベントとなろうとしています。

同じように、開催が決定した際の盛り上がりようがすさまじいところは、日本もブラジルも一緒だと思います。では、開催決定から開催するまで、そして開催後はどうなっていくのか。ごく一部の人を除いて、東京都民、そして日本国民もまだそこまでイメージできてはいないでしょう。


政府主導から民間企業主導へ
富裕層のためのイベントへと変わった

W杯開催前のブラジルでの暴動は、虐げられた貧困層による反発でした。国際的スポーツイベントは、その開催地がどこかで巨額のお金が左右される巨大ビジネスです。開催に向け、会場の新設やインフラ整備、都市再開発など“開催後の回収”という名目でどんどんお金が投じられ、地価が高い都心部の土地が切り開かれていきます。そして、そのターゲットとなるのが、古くからその地に住まう貧困層です。

実際、ブラジルでは割りの合わない立退料に、30キロ以上も離れた場所への引っ越しを強いられるなど、とても立ち退いてもらう人に対するリスペクトを感じられない待遇ばかりなのだと言います。しかも開催日は決定していますから、立ち退きを渋っていると次第に国は強硬手段に出てきて、いわゆる行政代執行という強制力をもって追い出していくと言います。

巨額の利益を生み出す国際的スポーツイベント。しかしそこで得たお金が、国民や開催地へと還元されていないのが実情だとロニックさんは言います。

「五輪が開催された北京やアテネ、W杯が開催された南アフリカの各都市など、すべて同じような状態です。“開催のために”と苦渋の決断を受け入れたにもかかわらず、大きな利益がどこか知らないところへ行ってしまっている。1992年バルセロナ五輪以降に見られる傾向です」

ロニックさんは続けます。

「W杯や五輪といった国際的メガスポーツイベントは、1970年代までは冷戦時代ということもあり、国威発揚を目的に国同士で開催権を奪い合っていました。しかし1980年代より、民間企業がスポンサーについての巨大ビジネスへと変貌をはじめ、現在の姿へと肥大化したのです」

今回のブラジルW杯やリオ五輪について、開催決定後に当初予定していた経費だけでは足りないことが判明、「さらにお金が必要だから」と、税金や光熱費を強制してきたのだと言います。いくら自国の誇りをかけたメガイベントのためとはいえ、ここまでされれば国民だって堪忍袋の緒が切れようと言うもの。話を聞けば聞くほど、ブラジルでのあの暴動に納得せざるを得ませんでした。


開催決定という御旗を掲げた脅迫?
弱者を排除した醜きイベントでは

お気づきの方もいるでしょう、東京五輪についてもすでにブラジルに似た兆しは出てきています。当初予定されていた新しい国立競技場のリニューアル後の姿は変更されることとなり、IOCへのプレゼンテーションのとき以上の予算編成となってきています。確かに、実際に開催準備を進めていくうえで想定外の事態は起こりえるものとは思いますが、「だって開催が決定したんだから、仕方ないじゃん」と、税金や光熱費をアップするのはもはや脅迫です。まだそうした方針が打ち出されたわけではありませんが、仮にブラジルのような施策を日本政府が採った場合、東京都民および日本国民はなんらかの意思表示をする必要があるでしょう。

また、これはFIFA(国際サッカー連盟)が設定しているW杯用ルールには、「特別建設法」や「W杯開催期間内における超法規的措置」などが設定されているそうです。いずれもFIFAと開催国のあいだでかわされる契約に記述されているもので、開催国の法的権限を越えた特別ルールとされるものだとか。例えば建築物を建てる際には日照権などの周辺住民が有する当然の権利を考慮せねばなりません。しかしこの特別ルールの場合、そうした当然の権利は一旦無視して滞りない作業を進めることが優先されるのだと言います。超法規的措置も同様で、スタジアム周辺での犯罪行為については、通常の手続きではない手順で裁定が下されるのだとか。

事実、国立競技場のリニューアル案を手がけたデザイナーのザハ・ハディドさんの最初の案では、残される予定だった都営霞ヶ丘アパートが後のリニューアル案により、撤去対象とされているそうです。

国として立ち退きを申し立てるわけですから、当然現状以上の住環境を提案することが求められます。長年培ってきた土地勘やコミュニティ、職場へのアクセス、その他諸々、立ち退かされる住民への負担は相当なもの。その理由が「オリンピックのためだから」と言われて、ハイそうですかと納得する人は少数派でしょう。極端な話、「わずか20日間足らずのイベントのために、どこか遠くへ行ってくれ」と言われているわけです。相当のお金でも積まれない限りは応じられませんよね。一方で、開催は刻一刻と迫ってきています。いずれ行政代執行という強制立退を強いられることは目に見えています。


問うべきは国民の意思
そこに想いはあるのか

ディテールの話をすればキリがないのですが、こと東京五輪に関して言わせてもらうと、論点はひとつ。

「2020年東京五輪の開催は、東京都民が望んだものなのか」

結論から言いますが、W杯も五輪も、すべて政府や行政が「やりたい」って言って始めたこと。僕は彼らより「東京でオリンピックを開催しようと思うんですが、皆さんどう思いますか?」と聞かれた覚えは一度もありません。

誤解なきように言うと、僕はサッカーが大好きですし、リニューアルした国立競技場でサッカー五輪代表の試合をナマ観戦してみたいとも思います。W杯だって、いつの日か自国の単独開催で存分に楽しんでみたいとも思っています。

しかし、国民が望んでもいないことを「やることが決まったんだから」というのは筋違いも甚だしいと思うのです。かき集めた税金で勝手に予算組みして、プレゼンテーションに投資しまくってなんとか開催権をもぎ取った(東京も大阪も一度ずつ招致に失敗し、大赤字こいていますが)ってだけの話です。そのうえ、さらに都民や国民に負担を強いてまでやろうというスポーツイベントに、一体何の意味があるのか。

そして、開催することによって得た利益は、きちんと国民に還元されるのか、ここも不明瞭なままです。大手広告代理店や大手ゼネコンにどんどんお金が注ぎ込まれ、貧困層を排除しての都市開発が進んでいくのは明白。結局は利権絡みの企業や関係者が美味しい思いをするだけなのでしょう。

奇しくもブラジルW杯で垣間見えたことですが、日本にはまだ“国全体でスポーツ競技を楽しむ”という文化がありません。W杯や五輪といった伝統的な巨大スポーツイベントは、経済的先進国というだけで手がけては後で不幸なことになります。それは開催した国の人々もそうですが、訪れた人々にとっても、です。

「日本のスポーツ文化発展のために」という大義名分を掲げた金儲けしか考えていないのであれば、招致そのものの疑問を抱かざるを得ません。政府主導である点もそうですが、日本という国がそこまでピュアな想いで五輪を開催したいと思っているのでしょうか。

「予算がかさんだ」、「お金が足りない」、「もっと最新テクノロジーを投入した施設を」……。

そんな問題が起こったときに、どこに立ち戻るのでしょう? それ、オリンピックに必要なもの? 将来の日本のスポーツ文化に必要なもの?

よりどころとなる志がどこなのか、現時点でははっきりと見えません。そして、そのよりどころがないまま時間が経過していくと、ブラジルと同じような事態に陥る危険性もあると思うのです。


今一度国民と話し合うべき
日本はなぜ五輪を開催するのか、と

先頃閉幕したブラジルW杯。思い返せば、開催前の暴動は想像していたほどの事態にはおよばず、残念ながら開催国は木っ端微塵に砕け散っていましたが、概ね成功と言える終焉を迎えたのではないでしょうか。

「やっぱりブラジル人にとって、サッカーは心のよりどころなんです。だから、どれだけ政府の施策が許せなくても、いざ開幕すれば訪問客を手厚くもてなしてあげたいと思うもの。W杯開催期間中は、国民が路上でバーベキューを催して外国人を歓迎していた場面を見ました。ええ、ブラジル代表のことについては聞かないでください、1-7というスコアは辛すぎました……」

苦笑いしながら、ロニックさんは続けます。

「2年後のリオ五輪に向け、おそらくブラジルでは再びデモが起こるでしょう。そして今年10月の大統領選挙で現職のジルマ・ルセフ大統領が落選したりすれば、その方策は大きく転換してしまうかもしれません。ただ、誰がリーダーになったとしても、人々の権利を守り続けなければならないことに変わりはないのです」

守られなければならない人々が攻撃されてしまう自体が起こりえる、ロニックさんはそう警告を残していきました。特に日本は高齢者の多い国でもあるので、はたして政府がそこまで配慮してのコントロールができるのか、甚だ疑問です。こうしたさまざまな問題について、東京都民だけでなく、日本国民全体で考え、そして結論を出さねばならないことなのでしょう。

私たちは、なぜオリンピックを開催したいのか。

オリンピック開催の向こうに、どんな価値を見いだそうとしているのか。

すべてとは言いませんが、大多数の国民が納得できる回答が出ない限り、オリンピックもW杯も開催すべきではないのかもしれません。汚職が増えたIOCやFIFAの連中に関係なく、自分たちの声で開催の是非を判断せねばならないのでしょう。

日本とブラジルとでは、文化的背景が異なります。だから杓子定規ではかったように「こうなる!」などとは言い切れないと思います。ただ、日本人として自国のカルチャーを鑑み、そして政府や行政の動きを見れば、日本人だからこそ気づく疑問があるのではないでしょうか。

僕自身は、東京五輪について反対しているわけではありません。ただ、「賛成!」と声高に言うだけの根拠が見つからないのです。

2014年7月17日木曜日

アディダスの暴挙? メッシのMVP選出に疑問の声噴出

ドイツの優勝で幕を下ろしたW杯2014ブラジル大会。決勝戦はライブで観ていましたが、攻めのドイツに守りのアルゼンチンという構図がはっきりと分かりつつも、両者の特徴が発揮された好ゲームだったと思います。1990年代ぐらいまでは、「絶対に優勝したい=負けられない」という両者の思惑から退屈なゲームになりがちなW杯決勝戦でしたが、近年は攻撃的スタンスが強くなったからか、観る者にとっては楽しくも緊張感のある良い試合が多いようです。

そんなW杯ブラジル大会ですが、最後の最後でひとつ腑に落ちないことがありました。大会MVPにアルゼンチンのリオネル・メッシが選ばれたことです。

サッカーに興味がない方でも、その名を耳にしたことはあるでしょう。世界最強(のひとつに数えられる)クラブチームのF.C.バルセロナ(スペイン)のエースストライカーにして、バロンドール(ヨーロッパ年間最優秀選手)に3年連続で輝いた天才。残念ながらW杯には一歩手が届きませんでしたが、それでも彼がマラドーナやペレに並ぶレベルの選手であることに疑いの余地はないでしょう。

過去の実績なら歴代スーパースターに比肩するメッシですが、今大会でのパフォーマンスはと言われると、正直可もなく不可もなく、といったところ。グループリーグではロスタイムの同点ゴールなどを含め4ゴールを奪取しましたが、決勝トーナメント進出とともに彼へのマークは厳しさを増し、ゴールはもちろん効果的な働きはあまり見受けられませんでした。

結果として決勝戦の舞台まで勝ち上がってきたアルゼンチンですが、メッシがその原動力になっていたかと言われると、「?」と言ったところ。1994年アメリカ大会でのロベルト・バッジョ(イタリア)、1998年フランス大会でのジネディーヌ・ジダン(フランス)、2010年南アフリカ大会でのディエゴ・フォルラン(ウルグアイ)のような活躍には遠く及ばないレベル。光るものがなかったわけではないですが、それならコロンビアのハメス・ロドリゲスやブラジルのネイマールらの輝きの方が上だったと思います。

結局は、ビジネスなのでしょう。

このMVP選考は決勝戦の前までに投票が締め切られるのですが、候補にあがった10名のうち、8名がアディダスとサプライヤー契約をしている選手だそうです。もちろんメッシもアディダスと契約しています。そしてアディダスは、このW杯の公式サプライヤーでもあるのです。日本代表チームの件もそうですが、アディダスの露骨なビジネスライクな動きといったら、正直目に余るほど。今回のMVP選考も、アディダスの肝いりと見ていいでしょう。

近年、フットボールビジネスは熾烈を極めています。「どこのクラブがどのメーカーのユニフォームを着るのか」、「あの有名選手はどこのスパイクを履くのか」といった話題は日常茶飯事。クラブ間はもちろん、国際Aマッチの親善試合レベルなら、マッチメイクにも影響するほどです。なぜならば、例えばナイキのユニフォーム同士の国の試合にすれば、その試合の写真や映像がそのまま広告・宣伝につながるわけですから。

香川真司の実力を疑うつもりはありませんが、彼に代表の背番号10を背負わせたのもアディダスだと言われています。中村俊輔が代表から縁遠くなったことから本田圭佑が狙っていたとも言われていたのですが、本田が怪我で代表招集を見送ったときに、アディダスが香川に10番を押し付けたのだとか。

いわゆる都市伝説的な域を出ない話ではありますが、日本代表がアディダスジャパンと歩み出した時期が1998年フランス大会以降で、中村俊輔、香川真司と歴代10番がアディダス契約選手というところが偶然のものとは思えません。ちなみに2002年日韓大会にて、フィリップ・トルシエ監督が最終23名のメンバーから中村俊輔を外す決断を下した際、日本サッカー協会はもとよりアディダスジャパンも大騒ぎになったと言います。

フットボールは、世界はもちろん日本においても大きな影響力を持つコンテンツとなり、代表チームや代表選手の一挙手一投足がビジネスを左右することから、あらゆる企業がその恩恵にあやかろうとさまざまな手を講じています。本来の目的(代表チームの強化)からはかけ離れた動きであっても、こういうご時世ですから致し方ないことなのかな、とも思いつつ、しかしながらエンドユーザー(消費者、利用者)がその是非を見極めればいいだけだとも思う今日このごろ。

メッシのMVP選出については、あらゆるところから疑問の声が噴出しています。FIFA(国際サッカー連盟)のブラッター会長まで疑いの声を出すあたり、「アディダスの独断で決めちゃったんじゃないの?」という邪推までしてしまいそうになりますね。ただ、ここまで疑問視される選考に意義など存在しないわけですから、むしろメッシが可哀想に思えるほど。

金さえ生み出せれば、何をやったっていい。

モラルハザード以外の何ものでもありません。「綺麗ごとでメシが食えるか」という声が聞こえてきそうですが、綺麗ごとすら貫けないビジネスに価値など生まれません。そうしたスタンスの人ないし企業は、一時的に儲かったとしてもその栄華が長続きすることはないでしょう。W杯での反省もせず、次の監督人事の話題を持ち出して問題をうやむやにしようとしている組織なんかは、特にそうでしょうね。

2014年7月9日水曜日

サッカーにすら熱くなれない国に、何ができるというのか

■あってはならない歴史的大敗
サッカーの試合を観ていて悲鳴をあげる……よほどのことでもない限り、そんな場面には遭遇するものではありませんが、ブラジルが立て続けに失点を重ねるたび、得体の知れない恐怖を感じました。

1-7。W杯という大舞台でこれほど大差がつく試合はそうそうありません。しかも決勝トーナメントの準決勝で、開催国であり、王国の名を冠せられたブラジルが。わずか6分間で4失点を喫し、スコアは前半だけで0-5という破滅的なものに。サッカーにおけるセーフティリードは3点差と言われていますが、5点差がひっくり返る試合などまずありません。ハーフタイム、ロッカーへ引き上げるセレソンの表情も憔悴し切っており、後半戦は“屈辱の45分”になることは誰にでも想像できたことでしょう。

開催国にして王国ブラジルがこんな形で敗れ去るとは、誰もが予想できなかったと思います。確かにドイツは強かった。しかし、たとえ敗れるにしても僅差に違いあるまい。W杯史に残る大敗が、ブラジルの身に降りかかろうとは……。

ただ、危うさはありました。勢いのあるチリと対峙した決勝トーナメント一回戦、辛くもPK戦で退けたセレソンは、ネイマールをはじめ多くの選手が泣き叫んでいたのです。

感情を爆発させると、その次には燃え尽きてしまっている——。1998年フランス大会の準決勝で怨敵オランダを撃破したブラジルは、マリオ・ザガロ監督はじめ全員が涙して勝利を喜びました。しかし数日後、決勝の舞台に登場したブラジルはまるで憑き物がとれたかのように覇気がなくなっており、ジダン率いるフランス代表に一方的に叩きのめされたのです。“喜びすぎたことで、緊張感が切れてしまった”。2002年日韓大会で決勝トーナメントに進出した日本代表もそう、緊張感が切れてしまったトルシエ監督は、過去に試したこともないフォーメーションを採用し、自滅しました。

チリ戦でのセレソンの感情の爆発は、見ていて危険だとは思いました。一方で、王国での開催ということから「優勝こそノルマ」という想像を絶する重圧がセレソンにかけられていたのも事実。これは王国たるブラジルでしか起こりえないものですし、ネイマールはじめメンバーが日々感じていたプレッシャーは誰にも分からないもの。

PK戦というのは水物です。特に実力が近くなればなおさら。「もし決勝トーナメント一回戦で敗れ去るようなことになれば、俺たちはどうなってしまうんだろう」、チリとのPKに臨むセレソンの心中や察するに余りあります。水際で得た勝利に涙が出たのも、当然と言えば当然。

セレソンは、極限状態だったのです。


■小さくなかった攻守のキーマン不在
本大会におけるダークホースのひとつコロンビアとの接戦を制し、ついに準決勝へとコマを進めたブラジルでしたが、エースであるネイマールをアクシデントで欠くという非常事態に見舞われます。さらに守備の要チアゴ・シウバが累積警告でドイツ戦出場停止というおまけ付き。ドイツ戦前の国歌斉唱にて、キャプテンを務めるダビト・ルイスとGKジュリオ・セザールがネイマールのユニフォームを手に熱唱するシーンは、彼らの「ネイマールのために」という熱い友情の表れでした。攻守のキーマンを欠くブラジルはやや分が悪いかと思っていましたが、もしかしたら開催国が奇跡的な勝利をおさめるのかも……。そう期待させる雰囲気がスタジアムに広まっていました。

最初の失点はまだ余裕があったように思えます。前半の早い時間帯であったことと、本大会でも逆転してきた経験によるものでしょう。試合開始からの“人数をかけた厚みのある攻撃姿勢”は変わりませんでしたから。

2失点めで、緊張の糸が切れたか。

決して逆転できない点差ではありませんが、相手は強豪ドイツ。しかも、ブラジルの攻撃に真っ向から立ち向かい、前がかりになった背後を突いての追加点。「まずは同点」と意気込んでいたブラジルの気持ちを削ぐには十分すぎる1点でした。

そこからは、もう悲劇以外の何物でもありません。確かにレギュラーとサブでの実力差があったとはいえ、チアゴ・シウバの不在がここまで影響するとは。

ディフェンスリーダーが持つ影響力は計り知れません。チームを最後尾からバックアップし、チームの陣形そのものを司るキープレーヤーとしての役割を担っているのですが、「どうやって穴を埋めるのか」「味方をどう動かすのか」「誰にカバーリングさせるのか」などなど、高いマネジメント能力が求められます。おそらくこの日のセレソンは、普段聞こえるはずの声が聞こえないことも含め、小さくない不安が2失点めによってパニックを引き起こしたのでしょう。確かにブラジルの守備は堅牢ではありませんでしたが、あそこまで崩壊するとは。


■孤独に戦い抜いた英雄たち
本大会において、強豪国が圧倒的な攻撃力を持ち合わせていることもあって、守備力が高くない国は勝ち上がれないという傾向が見られました。当たり前っちゃあ当たり前なのですが、今回は特に極端だなぁ、という印象です。

勝ち上がるために、まずは守備から。

勝負事における定石です。残念ながら我が日本代表も守備(というよりはチームとして)の脆さを曝け出して惨敗したわけですが、逆にチリやコスタリカ、コロンビアのように安定した守備力と「これぞ」という自分たちのアタッキングフォームを持っている国が勝ち上がっていきました。

その点で言えば、ブラジルはチアゴ・シウバやダビド・ルイスに頼りすぎていたのかもしれません。もちろんそれだけが原因ではないでしょうが、ただブラジルという国の性質から「守備偏重のチームなどありえない。ボールを支配し、いかに美しく勝利するか」が求められることもあって、まるで蝉のように生き急いだ戦い方をしていました。

そんな薄氷を踏むかのような試合を続けたことで、選手の心は極限状態へと追い込まれ、2失点めで「もう勝てない」と悟った瞬間に瓦解したのでしょう。

かといって、誰も責めることはできません。もしかしたらブラジルの実力は優勝を口にするほどのものではなかったのかもしれません。しかし、“絶対勝利”を課せられ、熱烈な国民の後押しとプレッシャーを受けた選手たちが魂を削った試合をこなしたことで、準決勝の舞台まで突き進んで来ることができたわけです。残酷なまでの仕打ちとも言える結果ではあったものの、セレソンは持てる力以上の推進力で勝ち上がってきました。決して悲劇のヒーローなどではなく、孤独に戦い抜いた彼らは英雄として賞賛されるべきだと思います。


■“しょせんサッカー”にすら熱くなれない国
決勝戦と3位決定戦を残していますが、このブラジル大会を通じて、世界と日本のあいだには、大海原以上に大きな隔たりがあることを再認識させられました。国によって歩んできた道、積み重ねてきた歴史など違いはあれど、ことサッカーという競技ひとつを見ても、こうも国としての温度差があるものなのかと思った次第です。

“サッカー”はあくまで指標のひとつ。何かに熱狂するという点だけで言えば、日本人の熱狂は諸外国のそれと比べてもかなり異質なように思えます。端的に言えば薄っぺらい。深みがないから、戦うものに対して愛情ある声をかけられないし、その薄っぺらさが透けて見えるから“戦うもの”と“支えるもの”のあいだに大きな温度差が生まれる。

「何を熱くなっちゃってんの。しょせんサッカーでしょ」

ええ、そうですとも。しょせんサッカーです。では、何だったら世界と渡り合えるのでしょう? もちろん、日本が世界に誇れるものはいくつも存在します。が、そのいずれかに対して国全体が熱くバックアップしているでしょうか。逆に言えば、“サッカーにすら熱くなれない国に、何ができるんだ”とも。

例えば、コスタリカ。凱旋帰国を果たした代表チームを、国民全員が賞賛とともに出迎えました。「世界の強豪国を相手によくやった! 君たちは我が国の誇りだ!」 もし仮に、コスタリカがGLで敗退して帰ってきたとしても、彼らの戦いぶりを見た国民は同じように暖かく出迎えたことでしょう。それぐらいコスタリカ代表チームは、魂を揺さぶるような熱いものを感じさせてくれました。寒々しい試合と結果を手に帰ってきた代表チームを黄色い声援とともに出迎える我が国とは比べるべくもありません。

今の日本では、「世界で勝つ」などと口にすることすらおこがましい。世界に名を馳せる名将を呼んでくれば解決できるというレベルではありません。まずはその隔たりをどう埋めていくか、それを考えるところから始めなければ、いつまで経っても発展途上国のままでしょう。

日本サッカー界は、この“ブラジルの惨劇”を目に焼き付けておかねばなりません。この域に達したいと思うのであれば。

2014年7月7日月曜日

プリンスリーグって知ってます?

■若い選手にレベルの高い経験を
日本を含めた世界各国のプロサッカー界には、ふたつの対戦形式があります。ひとつはホーム&アウェー方式での総当たりとなるリーグ戦形式、そして一発勝負型のトーナメント方式です。W杯はその両方をミックスしたもので、まず4ヶ国総当たりで上位2チームを決め、そこからトーナメント形式へと移行します。なぜこんな方法を採用するかと言うと、仮にW杯がトーナメント方式のみで運営された場合、初戦を終えた段階で半数の国が大会を去ってしまうから。せっかく本大会までたどり着けてもひとつの敗北ですべてが潰えちゃうわけです。これじゃあ参加国にも申し訳が立たないし、何より大会が盛り上がらない。「リーグ方式を取り入れれば、最低でも3試合はできる」「でも開催期間は限られているのでトーナメント方式も」ということから、このミックス型と相成ったわけです。UEFAチャンピオンズリーグなども同じ方式ですね。

前置きが長くなりましたが、一発勝負型のトーナメント方式と違い、リーグ戦は運営期間が年間単位と長いものにはなりますが、シーズンを通じたチームの安定感というもの推し量れますし、何より選手の実力を伸ばす実戦経験をより多く積むことができます。ホーム&アウェー型で10チームが参加するリーグならば、18試合は経験できるわけです。経験が積めて伸びしろが期待できるという意味で言えば、小さい子どもから学生まで若いプレーヤーにはうってつけの形式と言えます。

実は日本には、プリンスリーグという18歳以下のプレーヤー(高校生など)のためのリーグ戦が存在します。正式名称は「高円宮杯(たかまどのみやはい)U-18サッカーリーグ プリンスリーグ」。北海道・東北・関東・北信越・東海・関西・中国・四国・九州のエリアごとに催されるリーグで、高校サッカー部とJリーグクラブのユースが総当たりするリーグ戦なのです。

18歳以下という年代で有名なサッカーの大会と言えば、全国高校サッカー選手権大会でしょう。いわゆる“冬の高校サッカー”と言われるもので、聖地・国立競技場を目指して高校生がピッチを駆け回る姿をお正月のテレビで観たことがあるという人もいらっしゃるでしょう。各都道府県での地区予選から本大会まで、一発勝負のトーナメント方式で運営されています。


■日本サッカーの強化に直結する活動

非常に歴史の長い有意義な大会ではありますが、いわゆる一発勝負で勝敗が分かれてしまうため、せっかくの貴重な経験の場にもかかわらず、一試合で大会を後にする学校が半数にも及びます。また、参加資格は高校サッカー部ということで、プロ予備軍でもあるJリーグクラブのユースチームは参加できません。

もっとも多くのことを吸収できる年代がたった一試合でチャンスを奪われるというのはいかがなものか。ならば、異なる環境でプロ予備軍として育成されているユースも交え、多くの経験が積めるリーグ戦形式を実施しよう——。プリンスリーグ構想は、そんな発想から生まれました。

知名度はないけれど“ダイヤの原石”がひしめき合うプリンスリーグ。残念ながら冬の高校サッカーほどの注目度は集められていませんが、こうした地域密着型の活動が若い芽を着実に育て、ひとり、またひとりプロへの階段をあがっていっています。今の日本代表にも、このプリンスリーグで育てられたという選手がいるのです。

地道でも着実な育成に注力することで、よりスケールの大きな選手が生まれ、日本サッカーの土台が分厚くなり、ひいては日本代表チームを盤石なものとしていく……。“日本サッカーを育てる”“日本サッカーを強くする”ためには、こうした活動にスポットライトを当て、それぞれの地域の人がサポートしていくことでより高い頂へと選手を送り出していかねばなりません。メディアがこうしたところを取り上げることも、強化を手助けすることにつながるのだと思います。

このプリンスリーグの上には「プレミアリーグ」というものがあり、プリンスリーグの成績上位のチームが東西のエリアに分かれて戦う上位リーグです。そして東西のチャンピオン同士で行なわれるチャンピオンシップで雌雄を決し、シーズンチャンピオンを決めるというもの。

ご興味がある方はぜひ、プリンスリーグの情報に目をやってみてください。もしかしたら地元の高校やクラブユース、また地元出身の選手がリーグで活躍しているかもしれませんよ。
 
>> 高円宮杯U-18サッカーリーグ プリンスリーグ