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ハーレーライダーを迎えるミルウォーキーの少女たち |
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街を貸し切ってのパレードにポリスが登場! |
ハーレーダビッドソンが文化——カルチャーとして根付いていると実感した次第でした。特に印象的だったのが、ミルウォーキーでの3日め、世界的ロックバンド『エアロスミス』のライブが行われるときのこと。会場内を散策していたところ、とある老夫婦に話しかけられました。
「ようこそ、アメリカへ。あなたはどこから来たの? 日本、そう、よく来てくれたわね。あなたはハーレーに乗っているの? まぁ、乗っているの。それは素晴らしいことだわ。ミルウォーキーを楽しんでいってね」
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ハーレーに乗るお父さん、カッコいいっす! |
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どこの若者も夜遊びは楽しい! |
先日ここのコラムで、僕は「日本代表のユニフォームは民族衣装だ」と言いました。オリンピックを超えるスケールの世界的ビッグイベント、ワールドカップ。そこに参戦できる権利を手にするのは204の国と地域のなかから勝ち抜いた32ヶ国だけで、誰もが羨むかけがえのない挑戦権です。しかも、熱狂的なサッカーファンだけでなく、普段日常的にサッカーを見るわけではない人もテレビに齧りつくという注目度の高さ。少なくとも日本は、コートジボワール、ギリシャ、コロンビアという国の人々に「これが日本だ、これがアジアだ」という戦いぶりを見せねばなりません。これはFIFAの予選に参加し、数々の強敵を打ち破って出場権を得た国の“責務”だと思うのです。
かつて日本はアジアのなかでもサッカー弱小国として扱われ、“ワールドカップなど夢のまた夢”と笑われていた時代がありました。歴史上もっともワールドカップに近づきながら、あと一歩のところで夢破れた1993年の“ドーハの悲劇”、そしてさまざまなライバル国の意地に打ち負かされそうになりながらも、最後の最後で出場権を勝ち取った1997年の“ジョホールバルの歓喜”。アジア屈指の強さを身につけたからか、5大会連続での出場を果たし、ワールドカップに出ることが当たり前のようになっている感が否めませんが、昔ほどアジア予選に苦しまなくなってはいるものの、ワールドカップの存在意義は変わっていません。にもかかわらず、ワールドカップに挑むことが“近所の花火大会でも見に行く”かのような風潮に感じられる今日このごろ。
日本にはサッカー……スポーツというものが文化としてまだまだ根付いていないんだなぁ、と実感する次第です。
諸外国から見れば、日本のサッカーの歴史なんてほんのわずか。Jリーグが発足して20年ほどで、100年以上の歴史を持つ南米やヨーロッパから見れば、人生経験の浅いひ孫みたいなもの。僕自身も日本人ですし、「ヨーロッパや南米は違うんだ」などと偉そうに叫んだところで、説得力の欠片もないことでしょう。蛍光イエローのユニフォームだって中二病みたいなもんだと思えば可愛いもの、歳を重ねたときに振り返りたくない卒業アルバム程度になればいいと思っています。
強豪国であれ弱小国であれ、どこの国もワールドカップの出場権を獲得するために全身全霊をかけて戦い、敵を打ち負かしてここまで来たのです。もちろん参加するだけで満足している国なんてないでしょう、願わくばジャイアントキリングを達成し、勝ち進んでいって世界をあっと驚かせたいと考えているに違いありません。情報戦はすでに始まっており、サッカーそのものと同じくどれだけ相手を出し抜けるか、どの国の監督も頭をフルに回転させています。
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HARLEY-DAVIDSON 110th Anniversary |
その土台となるべきは“文化としてのスポーツ”、“文化としてのサッカー”に対する考え方ではないかと思います。根っこにあるのは「歴史が浅いから」ではなく、将来“伝統芸能として日本のサッカー”を披露するにあたり、必要なことは何なのかを考えることではないでしょうか。その礎が築けるとき、誰もが日本のサッカーというものに対して誇りを抱き、日本という国に対しての誇りを抱き、自信と情熱を持ってワールドカップに挑むことができるのだと思います。
大切なのは、ともに戦う人々への敬意です。
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Welcome HOME |
世界中の人々とともに切磋琢磨できる大会に参加できていることがどれほど幸せなことか。ワールドカップでの結果にかかわらず、ひとりでも多くの人がそのことを感じ取ってもらいたい。そのためには、サッカー日本代表が飽くなき闘争心をもって90分間諦めることなく完全燃焼してくれることが必要です。今、僕が日本代表チームに望むのはそれだけです。
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