2014年6月10日火曜日

伝統芸能としての日本のサッカーとは

ハーレーライダーを迎えるミルウォーキーの少女たち
昨年8月、創業110周年を迎えた米ハーレーダビッドソン モーターカンパニー社のビッグイベントを取材しに、アメリカにある本拠地ミルウォーキーまで行きました。ハーレーに乗るアメリカ取材はこれが初めてではありませんでしたが、H-D本社やハーレー製造工場、H-Dミュージアム、そしてアニバーサリーイベントと、ミルウォーキーという街がハーレー一色に染まるビッグイベントに足を踏み入れたのは初体験だったので、そのスケールの大きさに圧倒されました。

街を貸し切ってのパレードにポリスが登場!
とにかく日本とスケールが違いすぎます。モーターサイクルという日本では特異性の高い趣味の世界がここまでクローズアップされるなんて、これまでの人生では考えられないことでした。いちメーカーが110年続いているということ自体も驚きですが(独BMW Motorradで昨年90周年、伊ドゥカティでまもなく90周年。本田技研でさえ昨年創業50周年です)、そんなメーカーの創業祭ということで街ひとつを3日間も貸し切り状態にできるという事実がスゴい。日本で同じスケールがあるとしたら、青森ねぶた祭りといった歴史的な伝統芸能とも言えるビッグイベントでしょうか。そりゃ100年以上続いているんだから、ある意味伝統芸能だなぁ、とも思いますが、さすがはエンターテインメントの国というところです。

ハーレーダビッドソンが文化——カルチャーとして根付いていると実感した次第でした。特に印象的だったのが、ミルウォーキーでの3日め、世界的ロックバンド『エアロスミス』のライブが行われるときのこと。会場内を散策していたところ、とある老夫婦に話しかけられました。

「ようこそ、アメリカへ。あなたはどこから来たの? 日本、そう、よく来てくれたわね。あなたはハーレーに乗っているの? まぁ、乗っているの。それは素晴らしいことだわ。ミルウォーキーを楽しんでいってね」

ハーレーに乗るお父さん、カッコいいっす!
“ようこそ、アメリカへ”という言葉が印象的でした。日本における自身の日常ですれ違う外国人に「ようこそ、日本へ」って言ったことはないなぁ、と。こうした他愛ない会話でも立派な国際交流です、でも僕自身もシャイな日本人なためか、なかなかそういう風に声をかけることってありません。おそらく声をかけてくださった老夫婦は、自分が住んでいる国、自分が住んでいる街、そして街が生み出した伝統芸能に対して誇りを持っておられるのでしょう。だから、見るからにアジアンな僕を見て「見ろ、アジアからもやってきているぞ」と、嬉しくて声をかけてくださったのだと思います。決して日本に誇りを持っていないわけじゃないですが、彼らのハーレーダビッドソンに対する誇りほどではないのかなぁ、と考え込んだり。

どこの若者も夜遊びは楽しい!
サッカーにも同じことが言えると思います。

先日ここのコラムで、僕は「日本代表のユニフォームは民族衣装だ」と言いました。オリンピックを超えるスケールの世界的ビッグイベント、ワールドカップ。そこに参戦できる権利を手にするのは204の国と地域のなかから勝ち抜いた32ヶ国だけで、誰もが羨むかけがえのない挑戦権です。しかも、熱狂的なサッカーファンだけでなく、普段日常的にサッカーを見るわけではない人もテレビに齧りつくという注目度の高さ。少なくとも日本は、コートジボワール、ギリシャ、コロンビアという国の人々に「これが日本だ、これがアジアだ」という戦いぶりを見せねばなりません。これはFIFAの予選に参加し、数々の強敵を打ち破って出場権を得た国の“責務”だと思うのです。

かつて日本はアジアのなかでもサッカー弱小国として扱われ、“ワールドカップなど夢のまた夢”と笑われていた時代がありました。歴史上もっともワールドカップに近づきながら、あと一歩のところで夢破れた1993年の“ドーハの悲劇”、そしてさまざまなライバル国の意地に打ち負かされそうになりながらも、最後の最後で出場権を勝ち取った1997年の“ジョホールバルの歓喜”。アジア屈指の強さを身につけたからか、5大会連続での出場を果たし、ワールドカップに出ることが当たり前のようになっている感が否めませんが、昔ほどアジア予選に苦しまなくなってはいるものの、ワールドカップの存在意義は変わっていません。にもかかわらず、ワールドカップに挑むことが“近所の花火大会でも見に行く”かのような風潮に感じられる今日このごろ。

日本にはサッカー……スポーツというものが文化としてまだまだ根付いていないんだなぁ、と実感する次第です。

諸外国から見れば、日本のサッカーの歴史なんてほんのわずか。Jリーグが発足して20年ほどで、100年以上の歴史を持つ南米やヨーロッパから見れば、人生経験の浅いひ孫みたいなもの。僕自身も日本人ですし、「ヨーロッパや南米は違うんだ」などと偉そうに叫んだところで、説得力の欠片もないことでしょう。蛍光イエローのユニフォームだって中二病みたいなもんだと思えば可愛いもの、歳を重ねたときに振り返りたくない卒業アルバム程度になればいいと思っています。

ただ、同じ大会に参加する国々への敬意は必要だと思うのです。

強豪国であれ弱小国であれ、どこの国もワールドカップの出場権を獲得するために全身全霊をかけて戦い、敵を打ち負かしてここまで来たのです。もちろん参加するだけで満足している国なんてないでしょう、願わくばジャイアントキリングを達成し、勝ち進んでいって世界をあっと驚かせたいと考えているに違いありません。情報戦はすでに始まっており、サッカーそのものと同じくどれだけ相手を出し抜けるか、どの国の監督も頭をフルに回転させています。

HARLEY-DAVIDSON 110th Anniversary
ザッケローニが何も考えていないとは言いませんが、サポーターがシビアな目を持ち、選手やメディア、サッカー協会に強烈なプレッシャー……今以上に高い要求をし、ザッケローニに今まで以上の働きを強いることはできたんじゃないか、と思うことはあります。そういう意味で言えば、4年前から始まっていたワールドカップへの戦いにおいて、“ワールドカップに挑む心構え”という点では日本は一枚岩ではなかったのかもしれません。まるで3戦全敗でもしたかのような言い方で恐縮ですが、まもなく始まるワールドカップに向けた日本国内の風潮を見るに、ついそんな気持ちになってしまうのです。

その土台となるべきは“文化としてのスポーツ”、“文化としてのサッカー”に対する考え方ではないかと思います。根っこにあるのは「歴史が浅いから」ではなく、将来“伝統芸能として日本のサッカー”を披露するにあたり、必要なことは何なのかを考えることではないでしょうか。その礎が築けるとき、誰もが日本のサッカーというものに対して誇りを抱き、日本という国に対しての誇りを抱き、自信と情熱を持ってワールドカップに挑むことができるのだと思います。

大切なのは、ともに戦う人々への敬意です。

Welcome HOME
日本サッカー界は“Jリーグ百年構想”というスローガンを掲げています。地域におけるサッカーを核としたスポーツ文化の確立を目指しているもので、100年をひとつの目標として地道な活動を続け、“体育ではないスポーツ”を日常のなかに感じ取ってもらい、日々の暮らしが少しでも豊かになるための働きかけをする活動です。別に「絶対に100年かけなきゃいけない」ってわけではありませんが、南米やヨーロッパのサッカーも、ハーレーダビッドソンもそうした年月によって育まれ、地域の人々を幸せにし、かけがえのない誇りをも与えてくれる存在にまでなっているのです。

世界中の人々とともに切磋琢磨できる大会に参加できていることがどれほど幸せなことか。ワールドカップでの結果にかかわらず、ひとりでも多くの人がそのことを感じ取ってもらいたい。そのためには、サッカー日本代表が飽くなき闘争心をもって90分間諦めることなく完全燃焼してくれることが必要です。今、僕が日本代表チームに望むのはそれだけです。

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